伊原先生

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かつて「イカポン」と呼ばれる戸山高等学校の名物教師の一人がいた。私はその娘「ポン子」である。この名は戸山高等学校水泳部からいただいた。父は、生前自分の残すべき物として海軍時代のことを文章として残していった。"夢は本にしたかった"と思う。しかしながら、今はInternetという便利な物がある。そこで、FootballのHome Pageの片隅をお借りして我父の思いをとげたいと思い、Footballの田淵さんに相談し今に至たった。

父のことを覚えていてくれている戸山高等学校の卒業生のほとんどは、皆一回ぐらいは、彼に殴られた経験があると思う。OGにとっては皆無の経験であるかもしれないが… (うらやましい)。私が物心つき、さらに世間で暴力教師が騒がれるようになったころ、まじに、心配した。もし父が訴えられることになったならば、私は自ら証人台に立とうと、なぜならこの私も、思い切り殴られて育ったからだ。その"殴る"理由を解明するには彼の残したこの文章を読んでほしい。なんとなくわかると思う。

この地球上で東西の緊張感の消えた後、あちらこちらで起こる人種問題。日本という島国で安全に暮らしている私達に、それがいけないとかいいとか言う権利は何も無いと思う。でも戦争というものは、身近な人、そう父母、恋人、子供、友達との別れを乗り越えてのことなのだ。今の私には、それをどうやって乗り越えられたのかはわからない。徴兵制度のない日本が、いかに幸せか感じる前に、すこしでも、第二次世界大戦に生きた一人の経験を読んでいただければうれしく思う。

平成11年5月 伊原奈緒子

[訃報] 伊原奈緒子さんは2013年11月23日、富山県立山で雪崩にあい他界されました。ご冥福をお祈りいたします。

伊原奈緒子

伊原公男履歴

昭和3年1月2日 富山県中新川郡滑川町常磐町に生まれる
昭和16年4月1日 13歳 富山県立滑川商業学校入学
昭和18年12月1日 15歳 三重海軍航空隊奈良分遣隊に第十三期甲種飛行予科練習生として入隊(商業三年在籍時)
昭和18年12月1日 15歳 海軍二等飛行兵を命ず
昭和19年1月1日 15歳 海軍一等飛行兵を命ず
昭和19年3月1日 16歳 海軍上等飛行兵を命ず
昭和19年6月1日 16歳 海軍飛行兵長を命ず
昭和20年1月29日 17歳 第十三期甲種飛行予科練習生操縦術専修課程卒業
同上 潜水学校第十一突撃隊兼大竹警備隊付
同上 特攻兵器取扱講習員
昭和20年2月1日 17歳 任海軍二等飛行兵曹
昭和20年3月31日 17歳 第一特攻戦隊司令部付、横須賀突撃隊勤務
昭和20年6月19日 17歳 特攻兵器取扱講習員終了横須賀突撃隊付
同上 横須賀突撃隊付、(嵐特別攻撃隊)
昭和20年8月8日 17歳 横須賀突撃隊より出撃
昭和20年8月8日 17歳 第二特攻戦隊付、大島突撃隊にて待機
昭和20年9月1日 17歳 任海軍一等飛行兵曹
昭和20年9月3日 17歳 復員
昭和20年10月 17歳 東京体育専門学校第三臨時教員養成所入所
昭和23年3月31日 20歳 同上 卒業
昭和23年4月1日 20歳 私立成城中学高等学校勤務
昭和24年5月 21歳 中央大学経済学部入学
昭和25年8月31日 22歳 私立成城中学高等学校退職
昭和25年9月1日 22歳 東京都立戸山高等学校勤務
昭和27年3月31日 24歳 中央大学経済学部卒業
昭和63年3月31日 60歳 東京都立戸山高等学校退職
昭和63年4月1日 60歳 東京都立玉川高等学校嘱託員
平成5年3月31日 65歳 同上 退職
平成5年4月1日 65歳 国際短期大学勤務
平成6年11月3日 66歳 死去 (六十六才)

遺品

羅針盤

羅針盤

そもそも、このHome Pageを作りたいと思ったきっかけがこの羅針儀。母と私が、父が亡くなってから4年後の、1998年 父が果たせなかったこの羅針儀が展示されている呉の潜水学校を訪ねたことにある。 本文中にも一言も話題に載っていないのでその接点が不可思議に思えるかもしれないが、以下は父が事あるごとに母には次のように話していたということである。「終戦を迎えた特攻基地での悔しさと残念な思いが重なり、家へは帰らないと頑張っていたときに、家族のいる自分より年上の整備兵の方が、「自分も子供がいるので親の気持ちがよくわかる。どうぞ1日も早くご両親の所へお帰りになって下さい。お願いします。」」っと言われ、その言葉と供に手に渡されたのがこの海竜艇の羅針儀だったそうです。出撃の機会があれば自分と命を共に海に沈むはずの物ものでしたの、何よりも大切にしていた品物でした。本人がその展示にあたりお礼状を出しています。羅針儀につのる思いが少しでも皆様に伝われば幸いです。

手紙

展示場所 海上自衛隊 潜水艦教育訓練隊 潜水艦教育参考資料室
住所 〒737-0027 広島県呉市昭和町1-10
TEL 0823-22-5511
見学申込み方法 2ヶ月前までに書類提出
提出先1 世田谷区募集案内所
〒154-0004 世田谷区太子堂4-23-12 井上興業ビル4階
TEL : 03-3412-6039
FAX : 03-3412-6623
提出先2 その他 自衛隊東京、他府県の地方連絡部 募集案内所

最後の授業

今週で三年生の授業は終わりになる。

思えば五年前、戸山高校を定年退職し四月から玉川高校に嘱託員として赴任し一年生を受け持つた時は緊張と驚きとで大変な日々の連続だったが、一年過ぎるごとに開けてきて、またやりがいも出てきた。 自分でもよく五年間頑張ったと思う。 今では玉川にきて良き生徒に巡り合うことができて本当によかつたと思つている。

一人々々の顔を見ながら出席をとり、卓球のトーナメント戦を行った。終わり近くになるにつれ大分盛り上がり最後の授業も終了したので三年間の所見を話す。 話しが進むにしたがって一人二人と涙をながしている者が増え、話し終えると同時に「先生有り難うございました」「有り難う」「先生あたし泣いちゃった」と言って、剣道場から出て行った。 研究室にもどるとすぐに、一人の生徒が「オジイチャンこれ!」と花束を差し出し「おこづかいで買ったの!あまりよくないけどゴメンネ!と言って渡してくれた。感激して今にも涙が出そうになったが、他の先生の手前もありやっと堪えた。 戸山にいたときでも最後の授業で花束を貰ったことは無かった。

この生徒とは二年の初めから話すようになり、三学期頃から「オジイチャン おはよう」「オジイチャンまたね」と「オジイチャン」「オジイチャン」と言うようになった。初めは少々気になったが何故か叱ることができなかった。 翌日も翌々日も同じ話しをした。

今日で三年間の授業は終わりいよいよ卒業だね。よかったなあ。僕自身も二十才で教員になりこの一月二日に六十五才となり、この三月で四十五年間の教員生活を終えることになるんだ。卒業式には出るからなあ。 皆は卒業しですぐに、または三・四年して実社会に出るのだが、厳しいんだぞ、今日迄遅刻や欠席の多かった人は特に気をつけるんだよ、人から信頼されなくなり惨めな思いをしなければならなくなぞ。 誰からも可愛いがられるような人となれよ。 世間では「男は狼だ」と言われているのを聞いたことがあるだろう、俺も狼だつた時もあり、何人かの女の人を泣かせたことがあった」男には気をつけるんだよ、そして見えない赤い糸で結ばれていると言われている良き伴侶に巡り合い、良い家庭を築き、良いお母さんになるんだぞ。

五年前にこの学校に来てー年生を担当して、あまりにもひどいのでこれでも学校かと唯々驚くばかりの毎日だった。 バレーボールの対人パスをさせても三~四分たつと、一組二組とあちらこちらで列から離れて座りこみ、三人四人と集まり話し込む、前の学校では想像もつかない状能だった。このためのイライラと新任校にきた緊張感とで六月には胃が悪くなり学校を止めることも考たのだが、一般に言われる「良い生徒」もいるのが見えるようになってきた。そして九月初め「一学期途中で一時は学校を止めることを考えたのだが、新しい先生が来るまでの期間空白になり、生徒達に迷惑をかけることになると可哀相なので、やる気のある生徒だけを相手に授業を進めることにしたので、その心算で授業を大事にするように」と告げて授業をしてきた。

それからは列から離れた生徒をドナリツケル。勝手に休むことなく、できるだけ長い時間体を動かせるようにと。もう一つは人の話しをじっくり聞けるようになってほしいと思い授業を続けた。 二年になると分かってくれてか、授業中にドナリつけることも少なくなり楽しい授業ができるようになったのだが、次の年では三年には持ち上がらずに一年生の皆を持つこととなり、また同じことの繰り返しだったので辛かったた。

一年が過ぎ前の生徒の卒業式に出た、式が終わると「先生お体を大切に」「何時までもお元気で永生きして下さい」「先生、私の結婚式には必ず出てね」と多くの人が言葉を掛けてくれた。 また数人の卒業生が「先生有り難う」と涙しながら花束をくれた時には感動した。こんなに成長してくれたのか、ようしあと二年、玉川でやろうと心に決めたのだ。 皆の二年の時には少し緩くして、三年ではできるだけ多くの人と話しをし、またドナラナイようにして楽しい授業にと努めた。

一年では70%、二年では80%、三年では95%、初期に考えていたことが達成できたと僕は思つている。これも僕を助けてくれた皆があってこそできたことだ。 この三年間皆から多くのこと学ばせてもらった。「有り難う」。心がら礼を言います。本当に有り難う。

丁度皆の歳の十七・八才の時には海軍にいたんだ。十五才十一ヶ月で入隊した。 当時は人生五十年、戦時中は半分の二十五年、特攻隊員はさらに割引ありと言われてていて、十七才七ヶ月の昭和二十年八月八日特攻隊員として出撃し前進基地で待機し九月か十月には死ぬはずだったのに、今日までその三倍もの「お釣りの命を」」生き延びてきた。この間、若くして散つて逝つた多くの友の成し得なかったことを少しはできたように思う。もう何時死んでも悔いは無いと思っている。 俺は最後に玉川にきて皆にめぐり会えたことを本当に良かったと思っている。これも皆のお陰である。有り難う。

終わりにもう一つ言いたいことがあるから聞いてくれ。それは先週一つのクラスの体育館での授業で、それぞれのやりたいことをと言うので、バレ-ボール・ バスケットボール・バトミントン等をそれぞれ自由にやらせたのだが、三十分もすると二人・三人と座り話しだし、それが次第に増えていった。しかし数人は最後まで動いていてくれた。この間何時かはそれぞれで試合を初めてくれるかと心待ちにしていたのだが、とうとうそれができずに終わってしまった。

無から一つのことをなし、それを成し遂げる。これから社会に出る皆にとって一番大切なことを、皆に教えることが抜けていたことに気づいた。俺が至らぬばかりに皆には大変済まなかった「ゴメンヨ」。これで終わりにする。良いお母さんになれよ。「先生有り難うございました」と何人かが声を揃えて言うと、続いて「有り難う」「有り難う」と皆が泣いていた。いつからか僕の目からも涙が出ていた。

話していた処から離れようして一・二歩行くと一人が「先生待って」と言って、走って体育館を出て行き大きな花束を抱えて入ってきた。「これみんなからです」と差し出す「有り難う」と言ったのだが声にならない、全員声をあげて泣いていた。何人かで写真を撮ってる間にしくしく泣きながら一人・二人と体肯館から出て行った。 体育館から出ようとした時に出席日数のことなど学期ごどに話していた生徒が来て、泣きながら「先生私の家に七宝焼きの窯がありそれで焼いたの、ネクタイピンなの」と桐の小箱と可愛い封筒を差し出してくれた。思わす生徒を抱きしめ「有り難う。頑張るんだぞ」と言ったのだが、言葉になっていなかった。

五年前には考えられなかったことだ。前任校ですらこんなことは一度も無かった。 玉川に来て本当によかった。 良き生徒に巡り会えて本当によかったと心から思って言います。 四十五年間の教員生活を終えるにあたって最後の花道を可愛い生徒達が飾ってくれたのだ。有り難う。 唯々感謝の念で一杯です。

苗場にて   平成五年一月三十日

東京都立玉川高等学校嘱託員  伊原 公男

60周年 日本アメリカンフットボール協会功労賞

60周年

1995年1月3日東京ドームに於いて、日本アメリカンフットボール協会から、功労賞を受賞されました。 先生は前年(1994)11月に他界されたため、授賞式にはヒサエ夫人が出席されました。

受賞の方々(敬称略)

東日本

安藤信和 日本協会顧問、前日本協会理事長、元日本審判協会理事長
栗原満義 元日本協会専務理事
保科 進 明治学院大学監督、、現役最年長指導者
ウィリー・N・杉原 玉川大学監督、元専修・防衛・明治大学監督
小畑重雄 関東審判部顧問、元日大監督
櫻井和夫 元日本審判協会理事長、元関東協会理事長
近藤昭雄 元日体大監督、元関東リーグ監督会会長
安藤 覚 元都高体連アメリカンフットボール部副部長、日本高校連盟理事
伊原公男 元都高体連アメリカンフットボール部副部長
千村士郎 元NHKスポーツ報道センター・スポーツ制作部長
日産自動車 関東大学選手権・パルサーボウルを15年にわたり協賛
奥村 博 北海道協会理事長、初代北海道学生連盟理事長

西日本

三浦 清 関西協会会長
井床国夫 日本協会理事、前関西協会理事長、元関学監督
三谷 章 日本協会理事、関西協会会理事長
羽間平安 前関西審判部長
松山一弥 日大OB、山口高初代監督
吉川太逸 滋賀県連盟元会長
力武敏昌 元神戸新聞社運動部フットボール担当記者
宮川 雄 元スポーツニッポン新聞社運動部フットボール担当記者
三隅珠一 初代日本タッチフットボール連盟理事長
齋藤良二 元関西高校連盟理事長、元大阪高体連専門部委員長

弔辞

伊原公男先生、先生とこの様な形でお別れを申し上げることになろうとは、夢にも思いませんでした。私達戸山高校アメリカンフットボール部のOB・現役にとって、これ程驚き、信じ難く、そして悲しいことは、四十数年の部にとっても初めてのことであります。

昭和二十六年、出来たばかりのタッチフットボール班の顧問として、金子先生のあとをお願いしたのは、もう四十何年も前のことになりました。先生もまだ二十三才、独身で若々しく、張り切っておられました。確か復員後教員になられ、成城から戸山に移られた時でした。やっている高校も少なく、道具もロクにない、先生にしても殆ど経験のないフットボールの面倒を見ることには、かなりの抵抗があったと思いますが、西川君と私の願いにウンと言われたのは、名門戸山で変わったスポーツをやり出した私達の意気に感じたというより、何をするかも分からない心配から、悪童共の指導は誰かがしなければ、という教育者としての自責と責任感からではなかったかと思っています。

あれからは、次々と心配ばかりおかけしました。四十数年間、安心して頂いた時期は、殆どないというのが本当でしょう。関東・東京で何回かの優勝、そして甲子園ボウルや全国大会への出場など、誇らしいこともありましたが、殆どは、ご苦労やご面倒をかける日々の連続でした。特に、合宿での不幸な事故、アメリカンへの切換への教員室の反対、とかく問題を起こす部員と、常にご心労をかけ、公私共に本当にお世話になりました。我々の代としては、三年の時に法政大学の新人と生まれて初めて防具をつけて試合をした時の事を思い出します。私達はやりたい一心でドンドン計画を進めましたが、決意される先生の方は、並大抵のことではなかったと思います。何年かたってから、あの時は辞表を懐に入れ何かあったら教員を辞める覚悟だったと聞かされ、その時はもう結婚もされていたことでもあり、本当に大変なことをお願いしたものだと、反省すると共に先生の度量、人間の大きさに心からお礼を申し上げた次第でした。

大小を問わず各世代が心配をかけ、フットボールの顧問は辞めたいと思われたことも何度もあった伺いましたが、もしそうなっていたら今の戸山のチームはなかったと思います。私達のワガママを聞いて頂き、ご指導を続けて下さった結果、アメリカンフットボール部は、今では戸山随一の運動部となり、関東では常に上位を占め、OBも東大京大を始めとする各大学、そして社会人チームの監督・コーチ・現役として大活躍をしています。古い言い方ですが、文武両道を学ぶ素晴らしい部となりました。先生の長い教員生活の中でも、最も大きな業績の一つと言わせて頂きたいと存じます。勿論三十八年間の戸山を始め、成城・玉川・国際学園と、ご指導を受けた生徒は萬を数え、各界・各世代で活躍しています。

日本を背負う人材をこれだけ育成されたことこそ先生の業績の第一であることは申す迄もありません。

さて、私自身もOB会長を日吉君に渡し、これからは一先輩として、先生やご家族と一緒に戸山のゲームを楽しみたいと、春の試合の時にお話したばかりでした。

九月十六日に入院されたと聞き、月末にお見舞いした時に、何十年かのお疲れは、時間をかけてゆっくりといやして下さいとお願いし、ベッドの上に座って魚の煮つけがうまいと少し召し上がったのを見て、体力をつけて元気になって下さいとお話したばかりでした。十月二十三日の日曜日までは、土日の外泊も許される迄に回復されたと聞き、喜んでいたばかりでした。三十日の日曜日、西川君広瀬君と伺い、かなり苦しい状況ではありましたが、私達の顔を見、声を聞いて頂くと、ハッキリとうなづいておられたのに………

奥様お嬢様の献身のご看護の甲斐もなく、十一月三日朝、訃報を頂戴しました。

まだまだ沢山お話をし、お礼申し上げることが多いのですが、言葉が続きません。伊原先生の精神を戸山のフットボーラーが受け継ぎ、更に部を発展させることをお誓いして、お別れの言葉と致します。どうか安らかにお休み下さい。

戸山高校アメリカンフットボール部OB現役六百名を代表して。

平成六年十一月六日 細見 淳

故伊原公男先生七回忌

平成12年(2000年)10月29日(日曜日)、伊原先生のお墓がある中野の慈眼寺 にて、教徳公範信士七回忌の法要が行われました。 お世話になったフットボール部、水泳部の有志を中心に25人が集まり、先生の教えを懐かしむとともに、ご冥福をお祈りいたしました

伊原先生

伊原先生

参加者 (敬称略) ( )は卒年<昭和>

ご遺族 伊原ヒサエ、伊原奈緒子
先生 岩切梅夫、竹内芳勝、杉谷治行
水泳部 岩田達也(38)、渡辺治久(38)、岡田次郎(41)
竹田邦明(41)、 福田啓子(43)、間下啓子(45)
市川博志(48)
フットボール部 細見 淳(27)、西川郁三(27)、広瀬 昭(27)
松尾豊太(27)、 斉藤昭弘(28)、中村重雄(29)
市川 新(30)、久保木幹太(30)、 毛利昌史(31)
平沢尚孝(34)、萩原嘉行(47)、田淵浩司(55)
ラグビー部 渡辺 正(31)

故伊原公男先生二十三回忌

平成28年(2016)11月3日(祝日)、11月3日、元顧問の伊原公男先生の23回忌が菩提寺の慈眼寺(中野区中央3)で行われ、GHからは須賀潔・OBOG会長(19期)、田淵浩司・監督(30期)と創部OBの柿沼寛(2期)、アメフト転換時監督の市川新(5期)の4人が参列しました。23回忌法要には、ヒサエ夫人、戸山時代の同僚だった岩切梅夫先生、元顧問の杉谷治行先生や、伊原先生が戸山時代に世話をした水泳部OB・OGら計12人が参列。法要を終え、全員で墓石前に集まり、2013年11月雪崩事故で急逝した一人娘の奈緒子さんとともに眠る伊原先生の冥福をお祈りしました。

伊原先生

伊原先生

伊原先生

参加者 (敬称略) ( )は卒年<昭和>

ご遺族 伊原ヒサエ
先生 岩切梅夫(剣道)、杉谷治行(数学)
水泳部 岡田次郎(41)、竹田邦明(41)、福田(原)啓子(43)、市川博志(48)
フットボール部 柿沼 寛(27)、市川新(30)、須賀潔(44)、田淵浩司(55)
その他 桑原記代子(伊原家友人)、岩切浩(47)岩切梅男次男