入隊するまで

幼少の頃

北陸の小さな町で晴れた日には能登半島が見える富山湾に面し、後ろに立山・剣岳を望む田園の地、滑川町(滑川市)で、わりに裕福な家庭の五男坊(六人兄弟)として昭和三年一月二日生まれる。 浜のご坊と言われるお寺の住職が園長さんの幼稚園に二年通ったのだが、先生の顔と僅かに遊んだ友のことしか記憶にない。

小学生

町は細長く(ニキロ程)その中程に川が流れており東西に二分され、東地区には「寺家小学校」西地区に「田中小学校」が設けられ、その寺家小学校に入学四年生迄は女の怖い「会田先生」に教わった。ある日悪友と蝙蝠を捕まえてきてそれを授業中に放し、コッピドク絞られた事や、冬の朝は上級生の先頭が腰まで雪につかりながら、つけてくれた雪道を通って何時もの何倍もの時間をかけて学校までたどり着き、休み時間には校庭で雪合戦などをして女の子を集中攻撃して怒られた。

四年生の時国語の時間に書き取りのテストがあり苦しまぎれに教科書を見たのを女の子に告げ口され大変怒られたこともあった。 今でもはっきりと覚えていることの一つは支那事変勃発の朝のことです。町内の広場に子供達が集まり新聞を見ながら、大変なことになった。これからはどんなことになるかと、朝日を浴びながら興奮して話し合っていた。

またこんな事もあった。四年生の秋だったと思う、学校から帰り近くの神主さん宅くの前庭で遊んでいると、学校の小使さんが「会田先生が呼んでいらっしやるからすぐに学校え」と、迎えに来たのでついて行く。教室には先生と女生徒十数人が居て「これは似ているピッタリだ」と騒ぐが何が何だか分からなく只唖然としていた。なんと学芸会の主役の「猿の役」を決めるためだったのだ。それで猿の役をやらされるはめになる。(この時からモンキーと言うあだ名がついた)学芸会では赤い「チャンチャンコ」を着せられ、全校生徒の前で発表し、さらに富山市の陸軍病院の傷病兵を慰問に行きその劇を演じ大好評だった。

五年生になり組分けがあり男女別に分けられ、五・六年生の二年は男の「土肥先生」が担任になり放課後に受験の捕修授業が始まった。 六年生の二学期にはその補修授業に嫌気がさし、欠席したていたことが親に知られ、夜父の前で算術をやらされるも、わからなくて泣きながらやった。 その罰か、クラスから十名のうち一名しか進学出来ず嫌々田中校の高等科に行くはめになる。それからの一年は奮起一転頑張ったので、クラスで一番か二番かと言われるようになった。

商業学校入学

翌年四月 滑川商業学校に入学することが出来た。家からは二十分の町の外れにあり二年七ケ月間通学した。 同校では生徒の自主活動の一つとして地域ごとに、毎週士曜日の夜七時からお寺本堂を借りて名ばかりの座禅会(お説教の会)が行われ、参加を強いられ三十分程座禅を行い後半は何時も最上級生のお説教だった。

一年生の秋これに逆らった同級の六人で、集団脱走し海辺の砂利小屋に立て篭もり、上級生の悪口を言ったりして騒いでいたところ、九時頃に上級生数人が近くまで来たが入ってこなかった。 翌日呼出しを受けたので揃って「お寺」え行く、あわや乱闘になりかねない場もあったが、その日はこと無く落着した。 次の日学校え行くと上級生の教室に呼ばれ、入ると同時にマントを被せられ袋叩きにされたり、部室に呼ばれ殴られた時には一対一だったので殴り返したりした。上級生や先生から「目を付けられ」学校に嫌気がさして来た。

太平洋戦争突入

昭和十六年十二月八日朝。ラジオの臨時ニュ‐スで太平洋戦争突入を知った。『大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は本八日末明、西太平洋に於いて米英軍と戦闘状態に入れり』

この日は珍しく上級生と一団になり登校した。学校に着いてもこの話でもちきりで、「やっとやったか」と胸は高鳴り血湧き肉踊る思いだった。

たしか、一時間目は教室で待機、やや暫くして講堂に集合し、校長先生の話を聞き皆が燃えに燃えた。授業は三時間目からだったが殆ど身に入らなかった。 学校から家に帰っても町中大騒ぎだった。

続いて発表されたのは 『ハワイ真珠湾米軍港』に対し精鋭を誇る日本海軍航空隊(海鷲)の奇襲攻撃。『特殊潜航艇』(甲標的後の蛟竜)で軍港内に突入し戦果を上げた『九軍神』の発表を聞き溜飲を下げた。(三年後にこの特殊潜航艇の搭乗要員としての講習訓練を受ける身となるとは誰が知っていただろうか)

「マレー沖」での英軍の不沈戦艦と言われた「プリンスオブウエルス」と巡洋艦「レパルス」の両艦も日本航空隊の攻撃で瞬時にして撃沈させた大戦果に全国民が酔った。 また陸軍もマレー半島や南方の諸地区に上陸し多大な戦果をあげた。

あの日の興奮は今でも忘れられないことの一つで日本国中を喜ばせ、酔わせ、次の日も次の日も「大本営陸海軍部発表」軍艦マーチが続いた。

昭和十六年,十七年と太平洋の遠い島々や、大陸で日本陸海軍は無敵皇軍として善戦し特に海軍航空隊の活躍は目覚ましく国民から尊敬の的となった。

当時は男として生まれた以上は二十才で兵隊検査を受け二十一才で軍隊に入隊せねぱならなかったので、上級生も多くの者が「陸士」「海兵」えと熱をあげる。

志願を志して

こんな時代だから少しでも早く兵隊に行けば後から入って来る今の上級生より階級は上になるから、その時には「たっぷり」と仕返しが出来ると考えて当時街角に掲示してあった「少年戦車兵」を選び三番目の兄に相談したところ「海軍甲種飛行予料練習生」があることを教えられ、志願を秘めたのは一年生の冬だった。

それからの一年半余は悪友との付き合いを止めて、家に帰るとすぐに机に向かって受験勉強に集中した。

夕食後の休憩は家のすぐ裏の浜辺の堤防から能登の山に沈む夕日や海を眺めで一時間近く過ごしてからまた机に向かった。

受験科目を曜日に分けて時間・枚数等一日にやる量を決めて、夜の十二時過ぎ迄頑張る毎日が続く。

商業学校だったので数学の「幾何」は二年生の二学期からとなっていたので、全く習っていなかったのだが参考書「幾何のあたま」を買って貰い、只毎日ノートに写すだけだったが三回目には解答を見なくても出来るようになったので、 暗記したのではと思い教科書(本屋に頼み特別に購人す)の例題を解き答えを見ると合っていたので安心した。

秋の収穫時には出征兵士の留守家族に対する勤労奉仕の農作業稲刈りに行ったことや、配属将校とその助手の下士官の教練が厳しくなった外は学校生活もあまり変わりなく二年生に進級する。

二学期になり「幾何」の授業が始まり「解ける者は前に」と言われても誰も出ない、持にこの日の予習はしていなかったが前に出て黒板書しで席に戻ると「答えは合っているが、この方法では」と一言われたのでまた前に出で水を流すがごとく説明するも、先生と意見が合わず、お陰で評価は優・良・可の「良」しか貰えなかった。

その事があってから試験の前日になると悪友達が我が家に集まり勉強会となり予定が狂ったが、自分の勉強にもなったので分かる迄何回も説明してやった。

確か二年の秋だったと思う、町役場から「予科練」の願書を貰い、走って家へ帰り胸を「ドキドキ」させながら読む、なんと年齢制限があり「昭和二年十二月三十一日生まれ迄の者」と書いてある。「カーッ」と頭に血がのぼる。悔しくで、悔しくて泣きながら机を叩いた。やや暫くしてやっと気を取り直し「次がある」その日まで頑張るしかないのだと思いなおして本を見るも、二・三日は集中出来なかった。

スキー大会

富山の冬は雪が多い、小学校低学年の頃から竹のスキーで遊んでいたので、商業学校に人ってがらの冬は毎日曜の殆どは宇名月や上滝のスキー場に通った。兄の二人がジャンプをやっていたので、二年生で挑戦したが、何回飛んでも立てずに悩んでいたところ、全く知らない人からスキーの先端を見ながら踏切るようにと云われて試みた所不思議と立てるようになり大喜びしたのが忘れられない。 これは、富山県スキー大会の一週間前のことだった。

大会では「回転」「リレー」「ジャンプ」の三種目に出場した。「回転」はメロメロで八位、「リレー」ではスタートから50m地点より急な登り坂が100m程あり、その中程から抜かれ登り終えた時にはもう後には誰もいない「ビリ」。十分位の間小さな登り降りが続きゴールの見える200m程の斜面に出て下を見ると急斜面で数人が転倒していたので少し緩やかな斜面を滑り降り、そこで追い抜き三位でタッチしたが結局は五位に終わった。「ジャンプ」は急斜面に臨時に造られた小さな台だった。一本目は25mで転倒しなかったが、二本目は着地してから30m程の処が木陰でアイスバーンになっていたのでバランスを失い転倒してしまった。 起きあがって数歩歩くと、鼻のあたりが暖かいような気がしたので手を当てる、鼻血が出ていた。近くに居た女子学生が走り寄り「どうぞこれを」とハンカチを渡してくれたので暫くおさえていると血が止まった。 転倒したが制限の線を越えていたと認められ28.5mで二位となつた。

帰りの電車の中で先程の女子学生達数人が寄って来て「賞状を見せてください」と言うので、背中から取り出して見せると「ずごい、すごい」と騒いでいた。 月曜日に学枝に行くと、上級生やクラスの皆がこのことを知っていて、冷やかされたりして一日中大変だった。(賞状を飾った写真があったはずだが誰かが持っていったらしく、手元に無いのが残念だ)

予科練試験

昭和十七年になると、フィリッピン・ニュ一ギニア・太平洋の諸島・ビルマ・タイ・マレー等地球狭しと広大な地域に進撃して多大な戦果を挙げて進撃していた日本皇軍は、日中戦争以来不敗を誇っていたが次第に戦況も悪くなり転進・撤退を余儀なくされた。 四月十八日米空母「ホーネット」から発進したB-25等による民間人をも巻き込んだ東京の無差別空襲に始り、六月五日のミッドウエー完敗の真相も知らされず、皇軍の善戦勝利を信じ、お国のために死地に赴く出征兵士を町を挙げて送り出す日が多くなり、国民皆兵・滅私奉公と大人から子供まで、鬼畜米英と国民挙げての体制も空しく。十二月にはニューギニア・バプアの守備隊の玉砕。 ガダルカナル島も八月七日以来の半年にも渡る激戦の末に、二千四百名の戦死者を出しそれは米軍の十数倍といわれ、転進を余儀無くされた。

十八年四月には連合艦隊の最高指揮官の山本五十六大将の最前線視察から帰途ソロモン群島上空での壮烈なる戦死は全国民を寒からしめたが国葬として同元帥の霊を送った。 ミッドウエイの海戦までは進撃につぐ進撃と各地で善戦し無敵海軍は次第に苦戦を強いれれ、大本営陸海軍部発表も、かつての勇壮さも薄らえ、転進、撤退から玉砕と「海ゆかば」に変わり胸を締められるような思いをした。 米軍の力は多大なものだった。物量に、またその補給力にしても、またしかり、さらに近代的軍備を備えた米軍には、勇猛果敢な日本兵もこれに及ばなかった。

こんな流れの中で、映画や(ハワイ・マレー沖海戦・海軍・決戦の大空へ)歌(若鷲の歌"の歌とも言う"等が軍を讃え海軍熱や航空熱を高め、子供達は皆これらを声高らかに歌い会いその熱を高め青年達は、「海兵」・「陸士」と進みまたそれが称賛された。 十八年初夏願書を取り提出する。七月に富山市の県庁の講堂で、心侍ちにしていた試験を受けることができた。

身体検査・学科試験の第一次試験で三日間に渡って実施された。中でも「幾何」だけば自信があったが他は幾何程ではなかったが「不合格」だけにはなりたくなく毎夕海に祈っていた。

この海軍志願の受験については、両親にも学校にも話ていなかったので、受験後十日程過ぎてから母に話したところ大変驚き、唯一言「なにもこんなに早く」と、淋しそうに云った。 子を持つ身になり、今思うとどんなにか辛かったことだろうか、父もこのことを知っただろうに、ひとことも云わなかった。この上ない親不幸者だったのだ。

父はその数年前から缶詰製造工場をやっていて「焼き蛤まぐり」「ゆであずき」の缶詰をを造っていいたが、一年程再から缶が入手できなくなり、「さきいか」「こうなご」「でんぶ」等の佃煮を造っていたので学校から帰って毎日手伝っていた。 八月初旬の暑い日の午後だった、町役場の人が来て父に一通の封書を渡した。 父に呼ばれ、「あっ来」と胸をときめかし封を切る。

第四海軍志願兵徴募区
中新川郡滑川町常盤町
伊原公男
右昭和十八年後期甲種飛行兵ニ適スルニ付本証書ヲ付与ス
昭和十八年八月七日
舞鶴鎮守府海軍志願兵徴募官 林 清

合格通知だった。喜んで跳び上がるようにして父に見せると「よかったな」と云ってくれたが、十数人いた女工達は急に静かになり、なにか異様な視線を感じた。 中句にむりもう一通の通知がきた。

出頭通達書
現居住地 富山県中新川郡滑川町常盤町
伊原 公男
参著場所 舞鶴海軍航空隊
参著日時 昭和十八年九月二日 午前十時
検査期間 自昭和十八年九月二日
     至昭和十八年九月五日 四日間
右ニ依リ甲種飛行兵ノ第二次検査ヲ行フニ付キ出頭スベシ
昭和十八年八月二十四日
舞鶴鎮守府

もう嬉しくて天にも昇る気持ちだった。 これで「一歩前進した」ようし必ず合格して立派な海軍の飛行機乗りとして大空を飛び廻り、立派な手柄を立ててやるぞと胸をときめかす。

第二次検査

八月三十ー日緊張しきって県庁に集合する。一次試験の時には、あんなに多くいた受験者が少なくなっていたのには驚いた。県の係りの人に連れられ夜行列車にて舞鶴に向う。 駅から下士官に引卒され舞鶴航空隊の門をくぐり兵舎に向かう途中白一色で整然と駆け足で行き交う若い兵達を見て、自分の進む道を示されたような思いがした。 当夜初めて海軍の「吊り床」で寝た。翌日から四日間未だかつて経験したことの無い多くの検査を受けた。 第二次検査は思いもしていなかったM検(性病)や、大変厳しい眼球の検査や身体検査と、今まで経験無いしたことの無い多くの適性検査だったが、総べて通ったように思えた。

四日間の検査も無事終了し、五日午前航空隊内を見学 そして、毎日気にしていた憧れの水上機を近くで見ることが出来て、やがて、これに乗れるのだと思うと頭に血が昇った。隊内は片付き綺麗に整頓され、塵一ツ落ちていない、炊飯所に働く水兵さんですら勇ましく見えた。 爆音高く轟かせ着水し、降りてきた搭乗員の海軍独特の飛行服にジャケットを着けた雄姿を見てごれに、自分の姿を描き胸を時めかした。

お昼過ぎ衛門を出る。帰りは自由だったので同行の上級生T君と、日本三景の一つの「天の橋立て」まで足を伸ばしその景観に感動した。 途中で舞鶴の女子学生と知会い案内してもらったり、ボートに乗ったりして楽しい一時を過ごすことが出来た。 タ刻駅での別れぎわに「比の上の空を飛んで下さい。必ず見ますからね」と云って小さな点になるまで手を振って見送ってくれた。これに感動してヨオ-シ必ず飛んでやると胸をたたいた。

採用通知

二学期は既に始まっていた。生生や学友にも志願のことは話さず何時もと何変わること無く、また悪友達との付き会い始まり毎日たまりばで悪さを重ね、遠くの村まで毎晩のように夜遅くまで「盆踊り」に出かける楽しい日々が続いた。 九月の中句に一緒に受験していた隣町の中学へ行った友人が、美保航空隊に入隊することを知った。俺は駄目だったのかと、頭から冷水をかけられたようだった。 不合格?・どうしてッ、学科も適性検査も皆出来た筈なのに何故と、二・三日は夜も眠れぬ思いをした。 悔しくて、学校え行く足取りも重くすっかり消沈して何日が過ぎた。

何処からともなく「十二月には、十月以上に多くの物が入隊出来る」との噂が耳に入ってきた。切れかかった糸が結び治されたように希望が湧いてきた。

十ー月上句何時ものように学校から帰ると母に呼ばれた。怒られるような悪い事もしていなにのに、なんだろう、と小さくなって部屋に入ると「きたよ」と封書を手渡してくれた。海軍からだッ、まさか不合格ではとドキドキしなから急いで封を切る。 『ヤッタアー合格だ』

第四海軍志願兵徴募区
富山県中新川郡滑川町常盤町
伊原 公男
右海軍甲種飛行兵ニ採用徴募ス
昭和十八年十二月一日三重海軍航空隊
奈良分遣隊二入隊スベシ
昭和十八年十一月一日
舞鶴鎮守府

採用通知を母に見せる。読み終わるとすごく怖い目で見て「おとおうさんに」と手渡された。 工場え走り父に見せる。顔が少し変わったように見えたが無言で返してくれた。 よほど興奮していたのか後のことはあまり記憶していない。母に渡してすぐ家を跳び出し 例の溜まり場えと走った。

入口から「決まったぞ・十二月一日だア」と叫びながら部屋に入る。 「頑張れヨ」・「預張レ」・「シッカリヤレヨ」と声が掛かり、今日は「モンキーのお祝いだア」さあ喫めよと新しい「草煙」を出してくれた。 「俺は入隊の三日前にはキッパリと止めるからなア」といったところ、「送別会」は一週間前にしてやるから、その時は存分に喫め・と会の日時を相談し始めた。

次の日登校すると担任の先生に呼ばれる。今日迄先生には云っていなかったが、軍から通知があり一次合格から知っていて、「頑張ったね、しっかりやれよ」と言って下さった。何時云ってくれるか待っていたのだ。 「三年からはS君と二人だけだ。」と教えられた。 先生は皆知っていたのか、後々云われることのないように「飛ぶ鳥後を濁さず」とばかりに、学校では今迄以上に真面目に授業を受けた」

これは四十年程後のクラス会に出席した始めて知ったことだが、四年生になった時に怖かったが、皆から大変信頼されていた数学のI先生が「伊原はたいした奴だった。

皆あいつの後に続け」と大変だったよ。凄く誉めていたぞと教えてくれた友がいたが、この時先生はすでに他界されていた。

入隊の一週間前に友人の家(料理屋だった)の二階でお別れにと、夜遅く迄飲めや歌えの大騒ぎの「送別会」をやってくれた。 翌朝そこの親が外廻りを掃除した時、窓下に沢山の「煙草の吸殻」があったのがみつかり、さんざん叱られた云ってきたので、申し訳無いことをしたと皆で謝りに行く。今回は特別のことだからと許してもらった。 クラスからは一人だったが、日の丸の小旗を持って中央に座り全員で記念写真を撮る。そして全員が署名した大きな「日の丸」旗を貰った。

出征

十一月二十六日いよいよ今日で学校ともお別れ、その最後の時間がきた、漢文の授業だった、ベルが鳴り先生が入ってきた、カバンから教科書出そうと中を探すが「無い」仕方がないので前に出て、「本を忘れました」すると「お前ば軍隊に入るのだ、軍人が戦場に行く時銃を忘れたらどうなるのだ」

もう頭に血がのぼりブルブル震えたが、ぐっと我慢して、席に着いた。

この先生は何時もいやみを云い、また厳しかったので腹癒せに先生の自転車を分解して逃げたことがあり、そのお返しだ。と思ったらやっと落ち着いた。

授業が終わると校長室に呼ばれ、励しを受け、校長以下全教員が署名した旗を頂いた。(当時はは出征兵士は殆ど皆、知人友人が署名した「日の丸」の旗を持参した)二十七日は家に居れる最後の日なので、外出せずに一日中母の近くにいた。

昼過ぎには親戚一同が来て料理を作り、夕食は座敷で皆と賑やかな宴となった。

翌二十八日は早起きして祖母、両親、兄弟四人(その頃は長男次男は現役で陸軍に入隊していた)朝食をすませ皆で写真を撮る。

神棚・仏壇にお参りをすまし、両親に手をついて「行ってきます」と頭を下げる。身が引き締まり、熱いものが込みあげてきた。

両肩に「日の丸」をたすき掛けにして氏神様である神社え行く。すでに来ていた上級生の三人と、町の名士達も揃って神殿に上がり「おはらい」を承ける、多くの町民で広場はうまっていた。皆にとりまかれ、忠魂碑の前に並び四名が征くことを報告し「万歳」を承け日の九の小旗を振り駅まで行進し「万歳々々」の声に送られ郷里を出た。

県庁に集合した。数十名程の若者が県の係りに引率され夕刻割当てられた汽車に乗り奈良県の丹波市に向けて出発した。

途中京都で乗換え二十九日朝丹波市駅(現天理駅)に到着。

予科練での日々

入隊

伊原先生1

駅前にてそれぞれ下士官に誘導されその所属を知らされる。 第一区第八兵舎第三十九分隊第三班だった。皆ばらばらになってしまい心細くなる。知っている者は一人もいないのでちょっぴり心細い。

各兵舎、各分隊ごとに集合し下士官に引率され街並みを少し行くと、大きな門柱に第八兵舎と墨書され、日の丸と軍艦旗が掲揚された門を入る。

木造二階建ての大きな日本家屋が四・五棟ある、ここは何だろう?。これが航空隊か、各班に分けられそれぞれ指定された部屋(襖で仕切られた畳敷き二間続きの八畳間)に入ると、既にニ十人近くの先着がいた。皆年上のようで中にはオヤジのような者もいた。二・三人ずつで話合って中には聞いたことないような方言の者もいた。

この街は天理教の総本山があり、全国から集まる信者のための宿泊施設でこのような宿泊所が街のいたる処に沢山あり、戦時中であると言うので海軍が我々を収容するために接収したのだった。

海の無い奈良盆地で海軍特有の吊り床(ハンモック)も無く、零戦は愚か練習機の赤トンボすら見えない。皆想像とは随分と違うと、とまどいガッカリした。

この日始めての海軍の麦飯を食い床に入りつく(と云っても毛布にくるまる)。昨日家を出てからのことが次々とうかんできた。

自分から選んで来たのだ。施設・設備が思っていたのと違うからと云って、今更帰ることは出来ないのだ。明日からは海軍々人として種々と多くのことにも耐えていかねばならない、どんなことにも決して負けてはいけないと自分に言い聞かせやっと眠リに就いた。

起床

翌日(十二月一日)起床ラッパに起こされる。まだ暗い、海軍は早起きなんだなあと、仕方なく起き広場の洗面所え行く。

朝食のあと講堂に集合し三十九分隊第三班の一員となり分隊長河野中尉の訓話の後分隊士瀬戸口兵曹長、各班長を紹介され三班はS二曹だった。

奈良空では一区~三区に区分され、一区ごとに八~十数兵舎に分け、各兵舎三~数分隊・各分隊は班三十名で一班~八班の約二百五十名の編成だった。

午後衣服などを支給される。先ず軍帽・軍服(第一種軍装冬服)衣類(靴下・ハンカチ・手拭・褌)・生活用品等である。

班長の手にとるような指導でボタンをはめて憧れの七ツ釦の軍服を着て「とうだ似合うか」などと互いに大騒ぎだった。

入隊時に身に着けていたものを総て着替え家に送るため荷造りをして提出した。

衣類は小さくたたみ縦約三十糎・横約二十糎・長さ約一米の衣嚢に入れ壁ぎわの格子家に納め、生活用品は二十糎X二十五糎X四十糎の手箱に入れ棚に並べその下に教科書を置き、挟い処を合理的に利用するようになっている。

日常は事業服を云われる白の作業衣で何から何まで総べて新品を纏った練習生ができあがった。

戦後の資料によると奈良空の年令構成はオヤジさんのような五年生以上四十八%。四年生三十三%、三年生十九%となっていることを初めて知った。

班の中でも十五才十ーヶ月の最低の年令で、背も小さくこれで皆と一緒にやって行けるのだろうかと心細くなった。

昭和十八年十二月一日 一万七千四百余名の若者が全国の各県から集まり、海軍第十三期後期甲種飛行予科練生として入隊した。と記憶していたのだが戦後の資料によってその数は異なる。十三期生前期・後期でニ万七千九百八十五名が奈良・土浦・三重・美保・松山・鹿児島の各航空隊に入隊したと云う。

入隊式

朝六時の起床に始まり何日かは生活や行動等について訓辞を受けて一週間程の後に入隊式が行われた。(十二月一日だと云う友もいる)

現在の天理大学のあたりと思う処に広大な練兵場がありそこに、各兵舎から分隊長以下の教員に引率され、一種軍装の七ツ釦に身を固めた一万七千四百余名の意気盛んな新練習生が整列した。

軍艦旗が掲揚され、ラッパの吹奏で厳がに式が始まる。

海軍の軍装をした日本刀(剣のように見えた)を抜刀した海軍少佐水野副長の指揮下に行われる。

海軍中佐垣田司令からの任命と訓辞を受けた。

「…以下…名第十三期甲種飛行予科練習生を命ず」「今や大東亜戦事は決戦段階にある。全国民は海軍航空隊の活躍に期待するところ甚だ大である。諸子はこの機に望み国と海軍の要請に応え、全国津々浦々から救国の信念に燃え立って馳せ参じ、選び抜かれた勇士である…皇国の興廃は、名実共に諸子の双肩にある 未曽有の国難打開のため如何なる艱難辛苦あろうとも、良く耐え佳凌ぎ、己に鞭うって奮励努力されん事を期待する…」(司令の訓辞は同期・同分隊の於保氏著十六歳の太平洋戦争から)

今日からは、海軍二等飛行兵を任命され夢にまで見た海軍々人となり、厳しい新兵教育を受けることになる。

全国から選び抜かれた一人の予科練習生として誇りを持って、これからの厳しい訓練にも耐え「お国のために死を迎えるまでは預張り一日も早く戦線に」と硬く心に誓ったのである。

兵舎は粗末な二階建畳敷の長屋で各室に裸電球が一つ。

食事と温習時(自習)には五十糖X四十米程の折りたたみ机を出すが、普段は窓際に積み重ねる。窓際の隅には藁布団と毛布が重ねられ、お粗末な部屋だが日中ば殆ど居ないのであまり苦にはならなかった。

日課

総員起こしで始まる日課は次の通り

05:55 「総員起こし五分前」
13:10 「課業始」
06:00「総員起こし」寝具納め
13:20~14:10 第四課業
06:20「朝礼」体操
14:25~15:15 第五課業
06:50「食事当番手を洗え」
15:30~16:20 第六課業
07:00「朝食」
16:30 「食事当番手を洗え」
08:30「課業始」
16:40 「夕食」
08:30~09:30 第一課業
17:15~20:15「温習」
09:45~10:35 第二課業
20:45「甲板掃除」
10:50~11:40 第三課業
21:00「寝具おろせ」
11:50「食事当番手を洗え」
21:15「巡検」
12:00「昼食」
21:50「消灯」

課業(授業)は精神訓話・通信・信号・手旗・航海・運用・数学・物理・陸戦・体操(海軍体操・マット体操・跳箱・棒倒し・騎馬戦・闘球・長距離走・)等の多技にわたって行われ、土曜日は月に一~二回海軍独特の「甲板掃除」大掃除で、相撲の四股を踏むような姿勢で前屈みになり床を磨く辛い作業だったが他は自由時間だった。

朝六時起床に始まり洗面を終えると何人か集まると、先頭の者が指揮をしてを駆け足にて練兵場え行き点呼・海軍体操の後ち食事当番似外は、二十分間程の駆け足(軍靴を履いているので大変苦しがった)走っているうちに褌が前の紐から外れて片方のズボンの中に垂れ下がりこれにはまいった。

掃除・朝食八時に軍艦旗掲揚、八時三十分迄は温習(自習)課業始の五分前までには教場に着いて待機していなければならないので、その間の時間を見計って甲板練習生(海軍には艦・隊内には必ず甲板士官と甲板下士宮がいて、志気を高めると共に風紀を取り締まる役目で、大変権限があリ、怖れられていた)の号令で外に整列して教場まで駆け足(股を水平になるように上げる)で行く馴れるまでは大変辛かった。

朝の起床から就寝まで分刻みの日程をこなして疲れはてて、やっと就寝となるのだが、そうわさせてくれないのだ。

寝具の上げ、おろしでー日最後の「しごき」がある。 「寝具おろせ」で急いで床を並べ廊下に整列して報告する。 「寝具納め」で元のところに積みかさね報告する。 これが数回も繰り返され冬でも汗ばむ程になる。「巡検用意」でやっと床に入る。

海軍独特の「巡検ラッパ」が低く、高く静かに鳴り響きその余韻がなんとも云えず海軍に籍を置いた者には心の奥に何時までも残っているいと一つだと思う。

「巡検!」と云う重々しい声が廊下から聞こる。誰が答礼するのか「第三十九分隊異常無し」当直士官が分隊長・分隊士・教員を従え、床に就いて息をひそめている練習生の様子を窺がい、室の隅々まで点検して行く実に厳粛な儀式と云うか、海軍が集団でいる処では毎夜行われ、巡検が終わり当直士官が兵舎を去るまでは水を打ったような静かな時が過ぎ眠ることが出来るのだが、時にはこれからまた「寝具納め」の号令がかり納め終え報告する、「遅いッ」とまたすぐに「寝具おろせ」の繰返しが続き、これを終えてやっと寝かせてもらえる。

一日の疲れがどっと出てすぐに寝てしまい、寝たと思ったらすぐと朝がやって来たようで次の日もまた同じ繰返しで忙しい日が過ぎて行った。

ーケ月後にはずいぶんと速く出来るようになり「シゴキ」も少なくなった。

作業衣を丸めて毛布の下に入れ枕のかわりにして床に就くと、やがて海軍独特の「巡検ラッパ」が静かに鳴り響き当直士官が巡回に来る。これでやっと眠りに就けるのだが、このラッパの音に多くの者が涙した云う。

体操

毎日午前・午後のいづれかに体操か陸戦がある。まず海軍体操で絞られ、マット体操で目を回し、器械体操(鉄棒・平行棒)では手の皮を剥き、棒に脚を打ちつけ、相僕や闘球・棒倒しでの擦り傷・打撲が絶えなかった。

体操

体操

体操

体操

体操

体操

体操

体操

授業

陸戦では行進でまず脚をあわせる。従隊・横隊・隊列の変換等の行進で、ニケ月目ぐらいからは銃を担ぎ剣を佩びた。(この銃剣はシンガポールの英軍からの戦利品で日本の銃よりは短くてずんぐりしたものだった)

学科は座学と云い多教料に渡り行われた。数学・航法では習ったことのない、サイン・コサイン等でチンプンカンプンだったし、信号(受信・送信・発光信号)で最も苦労したのはモールス記号を覚えることだった。寸時をおしみ竹笛でピ・ピー(イ)ピ・ピーピ・ピー(ロ)と吹き鳴らし何処の隊でも大変だった。

其の効果があって数ヶ月で受信は百字/毎分、送信は八十字/毎分ぐらいまで出来るようになった。

手旗信号では冬の寒い練兵場で手がかじかんで旗を落としたり、両手を横に挙げたままで下ろさせてくれない、少しでも下がると旗の柄で頭を叩かれる。コーンと音がしてこれがまた痛いこと、叩かれまいと心死になって頑張ったので次第に「サマ」になってきたようだ。こんな毎日が続き腹がすいて飢餓のようになり、配膳されたご飯の量が少しでも多いのをと選びそこに座れるように並ぶのだ。一日 に五合はあると云われていたが一月も過ぎると骨と皮と云ってもいいくらいに痩せ細ったが、四ケ月ぐらいから段々と肉もつき半年で筋肉隆々を、やっと軍人らしくなった。その頃になると食がきまると云うかもう腹もすかなくなった。

先の英軍の銃ではいやな思いがある。たしか入隊二ヶ月目だったと思う、戦利品なので錆がひどかった。日曜の朝洗濯しようと、作業衣と靴下をまるめて洗場に行き始めたところ靴下の片方が無いのに気がつき、探しながら部屋に行ったが無い、そのうちに一班の班長今井上等兵曹が靴下を摘まんだ手を挙げて「この靴下は誰のものか」と云っているのが聞こえたので急いで行く。

「自分が靴下を落としました」
「何処にあったと思う銃にかかっていた」
「お前のような奴がいるから何時までたっても銃の錆が取れないのだッ」
「脚開け」
顎に二発で靴下をかえしてもらって洗濯場え行く。

「バッター」

入隊一ヶ月で海軍一等飛行兵になり厳しくて辛い新兵教育も終わりに近い頃の日曜日に、引率外出で「石上神社」に参拝した。久振りでシャバの空気を吸うことが出来たが、集合時間に二人が遅れそのために、大変な目にあった。

宿舎に帰り暫くすると「総員集合」がかかり二階廊下に正座させられ、遅れたことについてお説教をくった後に始めての「バッター」をもらった。

階段の上に水をはったオスタップ(掃除の時モップを濯ぐ桶)に軍人精神注入棒と墨書した野球のバットのような棒が数本浸してあったのを見た。これでお尻を叩くとは思いもしてっていなかった)

お説教?が始った「お前等はタルンデいる」… 「集合時刻に遅れた者は前に出ろ」 「今から軍人精神を叩き込んでやる」 廊下の中央で二人は脚を開き壁に両手をつきお尻をつき出してふんばっている尻を「よ-く見ておけ」と叫ぶと共に、野球の時のように棒を振りかぶって始った。

「ビシッ・ビシッ」と異様な音が廊下に響き渡る。三本・四本と続く七本目で崩れ落ちるように廊下にのびてしまった。「水を持ってこいッ」頭から水をかける。やっと立ちあがるとまた始った。 八・九本もう見てはおれない。 皆の顔も蒼白で中には震えている者もいた。

十本目でまた崩れた。何故に、こんなひどいことをと思ったとたん、「一列に並び一人づつ前に出ろ」と一人二本づつ「バッター」をもらった。十人も叩くと教員はもう汗だくだ、痛いことこの上無し、あとわずか数人となった時に、「教員止めッ」と松浦分隊士の一声で中止された。

当夜寝る時にはもう腫れあがっていて、上を向いては寝れないので横になってやっと寝ることが出来て、これが二・三日続いた。

翌夕入浴の時に皆の尻に二本の青あざができていて、貴様のは大きいとか色が農いとか云って互いに慰め合っていた。

何時だったか、何をしてか記憶に無いが、五本も「バッター」を貰つた。歩くにも痛いこと、また腫れあがりズボンがパンパンになり女のお尻のようだ。

海軍では多くの罰直(体罰)がありこれを「バッター」と云う。

罰直

他の罰直について

「前へ支え」

腕立て伏せ、面腕を伸ばして、床に付き躯が反って支える姿勢を保たねばならないのだが三分程で腹が下がり膝が床に着きそうになり躯が反って苦しくなるので尻を少し上げるとらくなのだが見つかると大変。 一人でも「ズル」をする者がいると時間が延びて皆に迷惑がかかるので互いに励まし合って三十分位は頑張れるようになった。

屋内とか乾いた土の処なら別だが、霜の降りた庭で一人でやらせられた時には「参った」霜がとけ、手はどろどろになり痺れ、白いズボンに泥が就くので膝を付いてズルすることもの出来ず参った。教員もそんなことをとっくにしっていたのかこの時は短い時間で許され部屋に入ると教職員が手桶にお湯を入れていてくれて早く湯に入れろと云ってくれた。この時始めて同期生や教員の心の温かさを知った。

「顎」

握り拳で顎を叩く、ごく普通に見えるが「グアーン」と目の前に星が飛ぶ。

両足を開いて下全身に力を入れていても、兵学校出の士官にやられると、体格の立派な奴でも一発でひっくりかえるのを不思議にに思った。 両足を開きしっかりと歯を食いしばらないと口の中を切って血だらけになる。

横須賀で特攻隊員の頃、朝練兵場に行かず定員分隊の付近に隠れていた十三・四期生数人をみつけて二発づつくらわしたが、途中で手が腫れて重くなり止めたいのを我慢して、全委員をやり終えたが、夕食時には手が腫れて箸も持てなかったことが合った。奈良で教員に顎をくらわされ恨んだが、叩く方も痛いことを始めて知った。

「牛殺し」

額を親指で支えた中指ではじく、これも大変痛い。

通信の受信テストで誤字を書くとその数だけやられ、部屋に帰り赤く腫れた額を互いに見会って、俺は幾つ、貴様ば幾つ?と笑いあったこともあった。

「手箱支え」

手箱を持った両手を前に伸ばし胸の前で支える。

その他特に名称はないが、甲板掃除だと云って廊下を何回も往復させられたり、長時間の駆け足や、階上・階下対抗の試合に負けると、配膳し終えた机を胸の前で支えさせられる。腹はすいているし、唯一の楽しみを前にしてこぼしたらもう食べられないので皆悲壮な顔をして支えた。

食事をとる時、左手に箸を持たせて、今より「三分間で食べる」「始め!」これは食べるなんてて云うものではない只飲み込むだけ。 よくもこんなに多くのことを考えたものだと感心する程あった。

「気合いが入っていないッ」「たるんでい」「遅い」「それでも海軍々人かッ」「軍人精神を叩き込んてやる」「連帯責任だッ」「娑婆ッ気が抜けていない」等ともう耳にたこができる程聞かされ、毎日この幾つかの罰直を受けて軍人らしくなつた。

昇格

一月一日海軍一等飛行兵となる。

訓練も日毎にきつくなり多教科に渡り、新しいことばかり頭に入れなけばならないので温習時の自習も大変だったし、体操・陸戦で絞られ辛い日が続き、寝床に入って泣く者も一人二人と増え他分隊で脱走者が出だとの噂が耳に入ってきた。

三月一日海軍上等飛行兵になる。

先に行われた適性検査や、数多くの座学テストの結果、操縦・偵察のの二つに分けられ、操縦分隊の第二十九分隊二四二名第四班の一員になり操縦術専修教程を学ぶことになる。昨日までの三十九分隊の顔見知りも少なくなり心細かったが心機一転頑張ることを誓った。分隊長中川中尉・分隊士渋谷少尉・先任下士宮(第一班々長)今井上曹・第四班々長(二九名)多田隈二機曹だった。新任ですごく気合いの入った善行章一本(階級章の上に付ける一本が在籍三年を表す)の二等兵曹が来た。南方洋上で乗艦していた駆逐艦が沈められ、丸二昼夜海上を漂って救助されたと云うので皆から恐れられた。

嬉しいことに自由外出が許可され(と云っても二名以上で行動せねばならない)始めは各班ごとに指定された「予科練クラブ」(近郊の農家)に行き、ご馳走になり春の一日手足を伸ばして寛いで過ごした。外出も月一回から後には二回許可され「クラブ」だけではなく奈良の大仏殿・春日神社・二月堂・三月堂・若草山・公園・猿沢の池・橿原神宮・法隆寺・あやめが池等の名所や寺院等を廻った。

奈良では大仏や春日神社に参拝し、猿沢の池では五重の塔をバックに写真を撮り、公園で鹿と遊び楽しい一日を過ごすことが出来る。写真は家に送る。

名物授業

この頃から海軍兵学校の名物と言われた棒倒しが行われた。 分隊の二百三十七名が、階上・階下の二手に分かれて闘うのだ。六米余の丸太を立て三人がアグラをくむようにして棒を脚で挟んで座る、これを覆うようにして三人・五人・七人で棒を背にして腕をくみ、六・七重と円陣を作り、その肩の上に三人が登り攻めてきたのを蹴落とす。また棒の四・五米前では二・三十名が横一列になって敵の先鋒をタックルして攻め手を何秒か遅れさす、二重・三重の守備陣を作る。

攻撃の五~六十名は二~三波に分けて、先鋒はまず敵の先陣を倒し、二波は先陣を突破して守りの外側に頭からつっこみ馬になる。これを足がかりに三波が上にあがり、三人を引きずり降ろして棒の先端にしがみつき棒を倒すのだ。

この勝負は五・六分かかることもある、なにしろ一方が倒れるまでやる。これを三回勝負するのだから捻挫・擦り傷が絶えない。

大変なのは負けると夕食が配膳され席について報告すると「待て」の号令がかかり罰として配膳された机を肩の高さで支えていなければならない、二分ぐらいからが大変、誰かが力を抜くと机が傾き食器が滑り落ちそうになる。

腹がすいてたまらないのに、「落とすな!」「我慢々々」時間の永いこと、数分で許されほっとしたのも束の間「三分で食べよ」「カカレ!」の声で噛まずに呑み込む、やっと半分程食べた頃「食事止め」あとは残飯ウラメシイが仕方無い、今晩は鱈腹喰った夢を見ることだろう。

海兵では度々手足の骨折者が出たと云われていたが我々の捻挫・擦り傷程度だからその凄さが思いやられる。

もう一つ「闘球」と云うのがあった。サッカーとラグビーを一緒にしたようなもので、蹴る・投げる・球を持って走る何をしてもよいのだが殴ることだけは禁止で、陣地に球を持ち込めば得点となる。これも二百四十名でやるのだから凄いものだった。負けると後の罰直があるので皆必死になってやった。

マット体操での前転・後転を十回以上やっても目眩いがしなくなり、腹這いになった十二人をも跳び超える(跳び込み前転)ことの出来るようになり、他の高度な種目も出来るようになった。

名物授業

名物授業

また地球儀の骨組のような直径二米程の鉄骨の球の中に入り足を開き固定し、上の握手に掴まり、重心を移動しながら回転するのだが、なかなか旨く出来ず、体が地面と平行になって止まってしまう、体が上向きの時はまだいいのだが、下向きになるともう動かない、腹が裂けそうになり呻き声をあげると、やっと助けてくれる。これは慣れると面白いのだが、班対抗のリレーをやらされ負けると例の罰直が侍つているので、失敗しないよう特に気を遣った。現在の宇宙飛行士の訓練にもこれと似たものが行われている。

座学も多くのことを学び、厳しい訓練にも耐え体もガッチリとして軍隊生活も身に付き心身共に海軍々人らしくなったようだ。

滑空訓練

五月初旬から一週間橿原神宮の運動場でグライダーの初級訓練があった。地上滑走に始まり、三米滑空までだったが、中学での経験者と云うので一機を与えられその指揮をさせられ、模範滑空をさせられた。

十五余名に指示を与え、牽引索を曳かなくてもよく暇があったので三葉の花にとまる蜜蜂を捕り小さな蜜嚢を食べたりした。皆には悪かったが楽な訓練だった。

六月にはいるとすぐに今度生駒山々頂での滑空訓練が行われ、やはり指揮を取るように指示され模範滑空の際に大失敗をした。

模範滑空の時、前の搭乗者があまり上昇しなかったので、座席に積んだ砂嚢を二つ下ろすように云われて搭乗した。

索が一杯に曳かれ留め綱が解かれると機は急上昇「いけない」五米近く昇った、急いで操縦捍を前に突き出し機が下向きになったので捍を引く間もなく「ドスン」と音をたてて着地した「大丈夫か!」「怪我はないか」と指揮官が駆け寄ってきたが尻が痛くて立つことが出来ない。暫くしてやっと立つことが出来た。幸いなことに機が水平になって着地したので損傷もせず、痛みもたいしたこともなく事無きを得た。

夕食後、山の斜面から見た薄暮れの風景は今も頭に残っている。いい気になり夕陽をながめていると、突然「総員集合」が掛かった。「直ちに受信用意をして前庭に集合せよ」手旗の受信だった。それが早いことアッと云う間に終わる。用紙が返され「満点以外の者集合」が掛かった。教員に用紙を見せると「貴様は幾つ」と云って日傘の竹の柄で額を間違えた数だけ叩かれる、部屋に帰り後から来る者の顔を見ると額にコブが並び、なかにはコブが頭を一周している者もいたので、互いに顔を見合わせ「貴様は三ツ」「俺は五ツだ」と云って笑い転げる。次から次えと暫く続いた。

これだけでは終わらなかった。この日珍しく「虎屋の羊かん」の配給があったが、班で満点を取った五人だけが貰え、これを皆で少しづつ分けて食べた。(丸い筒の十五糎程の物で海軍で配給された超一級品のお菓子だった)

山頂の航空灯台には世界一周飛行をした「神風号」が展示されていたが終戦直後米軍に撤収されたそうだ。(後の海軍機)

入隊以来、半年過ぎて六月一日海軍飛行兵長に進級した。、右袖階級章の桜の上の線が三本になった。軍隊での進級は本当に嬉しいものだ、名礼の横線を一本・二本と刻み込んだ時も嬉しかったが、この時はまた格別だった。それは休暇が間近にせまり、其の後には予科練習生(操縦術専修教程)の卒業が待っていたからだ。

海洋訓練

七月の初旬三重海軍航空隊え海洋訓練に行く。土浦に次ぐ海軍の航空隊なので奈良とは比較にならない、何から何まで立派なものだった。

水泳訓練は泳ぎに自信があったが、曇つた日でも長く入れられ寒くて震えながら泳がせられるので、一日下痢(仮病)だと云ってズルをした。

泳げない者が何人かいて、それらは和船から綱を絡ませた太い竹の棒を出し、褌に結び教員が綱を引いて調子を取っているものも始めのうちだけで、暫くすると其の侭にしておくと何時の間にが泳げるようになった。海軍は「ヒドイ事をする可哀想に、溺死したら」と思ったが不思議と泳ぐようになるのを見て感心した。

海洋訓練

また此の時初めて「カッター」訓練があり、おお海軍らしくなったと思う間もなく手に豆ができ、尻が痛くなったが、それでも絞られたのも忘れられない一つである。

海軍は絞るだけ絞っても、息抜きさせてくれる良いところがあった。この訓練の中の中日に伊勢神宮に参拝した。たしか小学五年生の時にきたのに、あまり記億していない。真っ白七ッ釦(第二種軍装)の服で身を固め街を行進し外宮から、内宮えとの途中「予科練だ」「予科練だ」との声が聞こえた。

清らかな五十鈴川で手を洗い、身を清める。参道の玉砂利を踏みたい大樹に囲まれた神殿の前で一日も早く戦線に参加を。必勝を祈願し身も心も引き締まる。

休暇中の心得

七月の末になり待ちに待った休暇が間近いになり、一週間は毎日のように注意をされた。休暇についての貴重な資料を同班で名古屋出身の浅井義之氏から得たので披露することにします。

「休暇中の心得」

一、此ノ重大ナル時局下ニ休暇ヲ戴ケルコトハ畏レ多クモ大御心ノ賜デアルコトヲ皆ハ忘レテハナラナイ
一、休暇中ハ心身ヲ一新賃シテ更ニ旺盛ナル気力ト体力ヲ滋養シ将来ニ遇進スルノ修養ニ努メヨ
一、隊ノ内外ヲ問ワズ我等ハ名誉アル海軍甲種飛行予科練生デアルコトヲ常二銘記セヨ
一、車内二オイテ官品ヲ飛バシタリ忘失セヌ様二注意セヨ
一、列車ノ乗降ハ規律正シク整然タルベシ、野卑ナ振舞アルバカラズ
一、軍ノ秘密ニ関スルコトハ絶対ニ喋ラナイコト
一、帰ッタラ先ズ氏神様ヤ祖先ノ御墓ニ参リスルコト
一、親ノ迷惑二ナル様ナ心配ヲ掛ケルナ孝養ヲ尽クセ
一、飲食物ニ注意シテ体ヲ損セヌ様ニ注意スルコト
一、隊ニ帰ルニハ必ズ一汽車出来得レバニ汽車早ク着ク列車ヲ選ンデ帰隊スルコト
一、休暇中病気ニ罹リ帰隊二遅レルト思ッタラ直グ分遣隊長宛其ノ旨電報シ医者ノ診断書ヲ送レ。病気ガ治ッテ出発ノ時ハ病状経過ノ記事ト診断書、市町村長ノ証明書ヲ持参シテ帰リ来ルコト
一、汽船汽車ノ事故デ帰隊ニ遅レル時ハ分遣隊長ニ電報セヨ。ソシテ汽車ノ場合ハ駅長、船ノ場合ハ船長ノ証明書ヲ貰ッテ帰ルコト
一、其ノ他ノ事故デ帰隊ガ遅レル場合ハ市町村長ノ証明書ヲ貰ツテ帰ルコト
一、自分ノ不注意ヤ其ノ他ノタメニ証明書ヲ貰ヘナイ事ガアッタラ其ノ侭デ良イカラ早ク帰ルコトヲ忘レテハナラナイ
右ハ分隊士ノ注意デアルガ分隊長ノ訓ヘヲ良ク守ルコト

*これは版謄写したものを全員に配布した原分のままです。

「中川分隊士の注意事項」

一、この休暇は親が自分の子がどんなにやっているかと心配しており、また立派にやるよう祈っているのであるから我々はこの様に立派に御奉公していることを見せて安心させるため許可されたものである。
一、軍人は家を出た以上死を期しているそれで軍人は常に後顧の憂いをなくしてくること
一、親にも元気でやっていることを知らせ、それにはよく手伝いよく働くこと
一、帰隊したならば今以上に後奉公できる様に休養して英気を養ってこい
一、恩師親戚友人に合うも良いが長居はしないこと
一、休暇中は
  練習生の態面汚さぬこと
  他人には親切を旨とせよ
  途中道草を食わずに真すぐに家え帰ること
  機密に関することは絶対に言うな
  摂生を守り身体に気をつけよ。八時間から十時間位の余裕を見て帰れ、帰隊すべき時刻は帰郷後直ちに調べておくこと
  皆大きな期待を持って帰るだろうが期待するな
以上の分隊士の注意事項は全員が清書させられ提出したとのことだが全く記憶無し

「教員の注意事項」

一、常に練習生の本分を自覚せよ。隊内は勿論隊外に於いても特に然り、分隊長の精神訓話注意を思い出し練習生心得を良く読むこと。隊外に於いてこそ本当の本分を発揮すべきである。
二、安価な死生観により練習生心得にもとる行為あるべからず
三、体操着の持ち帰りを許可するから体操を怠らぬ無こと
四、菓子は三個位持ち帰りを許されているが酒保物品の隊外持ち出しは禁ず
五、車中においての態度動作は活発にキビキビと行い他の模範となること
六、病気になった時は帰ることの出きる者は直ちに帰隊し軍医官の診療を受けること。帰ることの出来ない物は最寄りの海軍病院で診療を受けよ。陸軍病院でもよい陸海軍病院がない時は、一般の病院の診療を受け診断書を分遣隊長に送ること

以上が休暇についての諸注意であるが、当事は大変細かい事をと思ったが、よくよく読んで見ると、何がと間題の多い今の高校教育には無い「温かい」親心のようなものを感しる。十六~二十才までの青少年を預かりさぞかし大変だったことだらうと思った。今日までの四十二年二ヶ月、高校教育に携わりこの間海軍のこの精神が少しは生かされただらうかと思うと、只なんとなく複雑な気持になってくる。あと二年半は出来るだけ今の気持を生かして生徒達に接するように努めたいと思う。

休暇

休暇

一ヶ月程前から誰もが暦を作り一日々々と消して楽しみにしていた。毎日床に入る度に家のことや、友人達はどうしているだらうか、また郷里の山々や海を思い思い浮かべ帰ったら誰と会い、何を話そうかなどと考えながら眠る日が続いた。

此の項種々の噂の一つに、休暇の後、九月の卒業試験を終了したらフイリッピンに派遣されるらしいと云うのが伝わっていたので尚一層胸を弾ませていた。

「昭和十九年八月四日」待ちに待ったその日がついに来た。

一、事由 賜暇休暇二付
一、行先 富山県中新川群滑川町常盤町二十七
     八月四日許可 伊原夕子方
一、期間 自昭和十九年八月四日
     至昭和十九年八月十三日 九日間
許可書を旨に丹波市駅から汽車に乗ったはずだが家に着く迄の間全く覚が無い

当事一般市民は食糧不足で困窮していると云う事で、各自十日分の米が配給され持たされたが田舎街なのでさほど困ってはいなかった。 七ツ釦の真っ白の服(第二種軍装)を身につけて五日の午後故郷の滑川駅に着き、数多くの思いのある知りつくした八ケ月以前と何変わることの無い道を行くと、子供達が出てきて「アッ予科練ダア」と叫びながら前に回り顔と服を見比べて暫く付いて来た。

町中に入ると、次々と顔見知りが跳び出して会釈をしてくれる一人々々に海軍式の挙手の敬礼をしながら、家えと急いだ。なかには「立派になったね」と云う声も聞こえてきたのでさらに胸を張って歩く。

「只今帰りました」と大きな声で叫ぶと、母が跳ぶようにして玄関まで来てくれたので直立不動の姿勢で敬礼をしながら「只今休暇をもらって帰りました」「来たか、来たか、お帰り」「お父さんは奥だよ」「早く々々」と手をとるようにして奥え行き、父の前に正座し「只今帰りました」と両手をつく。

「元気そうだな」「よかったな」「ゆっくり休むんだぞ」 立ち上がり仏壇の前に行きお参りをすます。母は「服を脱ぎ休みなさいな」と云って足早に何処かえ出て行った。

休暇中の生活

一日目は早かった。家族七人(祖母、両親、兄三男、四男、弟)のタ飯は大変なご馳走で、久振りで母の味を鱈腹頂き本当に楽しい一時だったがこれで、二人の兄長男・次男が居てくれたならら両親もどんなにか嬉しいことだらうかと思った。二人共徴兵で陸軍に入り、長男は満州に、次男は仏印え出征していた。

夕食後は入隊前を同じように浜辺の堤防に座り夕陽を眺めながらギターを弾く、薄暗くなった頃、誰に聞いたのか二年前から合っていた近くの酒屋のJ嬢が会いに来てくれる。海軍の事など聞かせて暮れと云うので、入隊してからの厳しい訓練の事などを話す。毎晩取り止めの無い逢瀬が続き、最後の夜は「手紙を書くわ」と云って何度も振り返りながら帰って行った。

これは後日談だが、彼女から来た手紙を教員室で大声で読まされ、冷や汗をかき真っ赤になった。丁度その頃第八兵舎の定員(水兵)分隊に先任下士官の上機曹が同郷の出だったので以後は班長には内緒で定員分隊気付けで文通を続けた。

二日目

午前中二年七ケ月通った滑川商業学校え行ったが、夏休みのためか数人の先生しか登校されておらなかったが歓迎された。 午後自分を弟のように可愛がってくれていた人と云うか、実は三番目の兄と同じ学年のTさんの彼女で文通を仲介していたDさんに会いに行く。話しているうちに彼女の友人で隣町の人(二番目の兄の恋人)が是非会いたいと云っているので二日後に会うことにした。

三日目

同時に入隊した二人の先輩の家に行ったが、分隊も異なる第二区だったので丁度一週間の入れ違いに帰隊したので会えなかった。夜は例の悪友達と会い遅くまで話が弾んだ。

四日目

夕刻Dさんと共に町はずれ迄行くと、浴衣を着た大変奇麗な女性が待っていた。三人で浜辺の道を歩き漁師町まで来ると、小学生達が出てきて「一ツ・二ツ・三ツ・七ツ釦だ」と云ってついて来るし「お母さん達」まで出てきて「予科練さんだ」と云って頭から足の先まで珍しそうに見るので、少々照れたが家の近くの神社で少し休んでDさんの家で別れた。

五日目

夕食後父と共にお墓参りに行く、もう間もなく父より先に此処に入るのかと思うと急に寂しいような気になり、お参りをしている父をじっと見つめていた。

墓から帰り、数学のI先生のお宅に行き、遅くまでお邪魔した。帰りぎわに「体に気をつけるんだぞ。必ず帰ってこいよ!」と云われ、なにもかも承知のはずなのに無理な事を、と思ったが、「最後の最後まで頑張ります!」としか云えず、コチコチになって挙手の敬礼をしながら顔を見ると涙で目がにじんでいた。

七日目

八月十一日 明日は出発しなければならないので、これが出来る最後の親孝行と思い一日中家にいて母の近くにまつわりついていた。 午後から叔父・叔母の両夫婦が高岡・富山から来て最後の夕食を共にして、夜遅くまで語り合った。 この一週間を振り返ると種々の事が頭の中でくるくると回る。なかでも「七釦だ」「予科練だ」と羨望の的となった事だ。 町からの出征兵士は多く出たがその殆どは陸軍で、海軍は乙種予科練え行ったのは唯一で、その水兵のセーラー服姿ですら珍しいのに、今迄見たこのと無い「真っ白の短い上衣に七釦」誰もが始めて目の前で見たのだからなのだらうか。 更に年波もゆかぬ少年が次に帰る時は「白木の箱の中」それも、そんなに遠くはないのだと複椎なものが心の奥にあったからだらうか。

八月十二日

もう此の家の布団で寝ることも出来ないし、生きて帰ることも出来ない、家の中のことを、しっっかりと脳裏に納める。種々のことが頭に浮かぶ、両親と顔を合わせるのが辛くなり浜辺え行き暫く海を眺めていると兄が呼びにきたので家に戻った。 帰隊のため午後の汽車で発たねばならないので、一同揃って記念ん写真を撮ったり、忘れ物は無いか官品の整理等で慌ただしく時が過ぎた。 軍服に着替え父母の前に座して「一週間有り難うご座いました。」「今年中には南方え派遣されるようです。」「お体を大切に」「では行ってきます!」と云って頭を下げる。

「そうか行くか」と顔を見合わせたが母は無言だった。 父が立って仏間から、日本刀の包みを持って「此れを」と前に差し出した。包みを解くと海軍の軍装をした立派な日本刀だった。(隊では殆どの者が持っていて欲しくてたまらなかったが、最後まで口には出せなかったので、願いが叶ったと喜びがこみあがってきた。これは高岡の叔父が持って来てくれたことを後で知った。

「有り難うご座います」と云って座を立つと、兄達が刀を持って写真をと云うのでまた皆で一枚、兄も刀を持って写す。 此れを見よとばかりに日本刀を左手に持ち家を出る、軒並みから見送ってくれる人々に「挙手」の答礼をしながら駅に向かった。 暫く待っていると、駅の改札の人が出て来た。「時間ですから」「お体に・では行きます」と云うと祖母は泣いていた。振り返り返り階段を上がり線路二本向こうの上りホームに立つ、祖母・父母・兄弟の皆と向き合うったが互いに笑顔を見せるだけで「無言」だった。

暫くすると下り列車が先に入って来た、その時急に「これでもう、二度と会えない」もう「見おさめ」かと思うと、胸が締め付けられ、涙が出てきた。全身を固め、これ以上無いと云うような最高の姿勢を取り最後の「挙手の敬礼」をすると列車で見えなくなった。上り列車が来たのでタラップに立ち目の前の列車の窓越しに捜して帽を振った。(想えば楽しいそれはもう書きつくせない程のすてきな休暇だったが、駅での一瞬のような訣れは今でもはっきりと浮かび目頭が熱くなる。両親から教えられた大切な一つだったのかもしれない)

特攻志願

帰隊

伊原先生2

十三日の午後浮き々々した気持ちで衛門を入り兵舎玄関に立つと、目に入ったのは一週間後から約一ヶ月に渡る卒業試験の日程だった。それを見て休暇でタルンダ気分も吹き飛んで「よおーし、やらねば!」と云う気が涌いてきた。

翌日から「娑婆っ気を抜いてやるッ」との厳しい訓練が再開されたが、気持も引き締まり、また慣れもあり、さほど苦にはならなかった。卒業試験は毎日のように続いた、日がたつにつれで航空関係の時間が多くなり緊張した。

この頃から、敵機や敵艦船の写真を二・三秒観せて、その艦名を当てるのがあって偶まに、日本の艦船のが出される、それを間違えて米艦船名を日うと「貴様ッ味方の艦を沈めるのかッ」と罰を貰ったこともあった。

八月の終わりの頃だったろうか「本日予定課業中上、練習生総員直ちに柔道場集合!」兵舎前に集合すると中川分隊長から 「只今から重大な発表がある」と告げられ、分隊士・教員に引率され分遣隊本部近くの柔道場に先を競って行く。周囲は巡羅隊(陸軍の憲兵隊に同じ)によって厳重に整備されていうので、異様な雰囲気だった。何事だろうかと中に入る。暑い昼だと云うのに雨戸ば閉められ、薄暗い電灯の光だけが目に入る。集合を報告する。

「下士宮は退場せよ」

教員達は退場し、周りを見ると、奈良航空隊の首脳陣佐官級四名と我々練習生だけなので、何か息苦しいような雰囲気だ、私語する者もいない。

特攻志願

始めに副司令(分遣隊副長)水野少佐より

「只今から司令(派分隊長より重大な発表がある。諸君は今から聞く話は軍の機密にかんするものであるからして、外部にば絶対に漏らさないように」と云う厳重な注意の後に司令山田慈朗大佐が壇上に立ち発表があった。(以下は「奈二九会短信・武士の情」篠原敬吾氏。「十六歳の太平洋」於保昌二著から)

「よく聞いて貰いたい」といたわるような口調で話始まる。

今や敵の反撃は随所に熾烈を極め重大な戦局を迎え必ずしも我に利あらず。我が海軍に於いては有力な0兵器を開発し之れによって驕敵を粉砕し、国防の重責を全うせんとす。

この0兵器は挺身肉迫、一撃必殺を期するものにして生還は期しがたい。 この0兵器により戦局の打開を期すも、今から要員養成するにも時を要し、時間が掛かりそれを待てない。この新兵器の操縦方法が飛行機の操縦法を類似している。

諸子は空の決戦要員たるべく国と海軍の要請に答え、国難を救わんとして予科練習生を志願し厳しい訓練にも耐え抜いた雛鷲であるも、諸子のごとき元気溌剌、且つ攻撃精神旺盛なる者たるを要し、当隊卒業は全海軍の鶴首する所であるも戦局は余りにも逼追、正に皇国の興廃をかけた局にあり最前線は諸子の緊急な出動、戦闘参加を渇望している。 あくまで初志を貫き大空の決戦場に馳せ参ずるも立派な軍人の奉公である。同時に戦局の重大なる推移に鑑み、先に述べた0兵器の搭乗員として早急に戦列参加せんと熱望する者、命ぜられたら勇んで応ぜんとする者を募る。 これについては、強制はしない。

選抜せられたる者は、概ね二ケ月乃至五ケ月間、別に定められたる部隊に於いて教育訓練を受けたる上、直ちに実戦に参加するものなり。 今から用紙を配布するので、所属官等級氏名を記しその上に  熱望する者は「二重丸」
 どちらでもよいと思う者は「丸」
 あくまでも初志をとの者は「白紙」
を記して提出せよ。とのことだった。

重大な岐路である。死をかけて入隊したとは云え、同期の友より先に逝くことになるのだ、相談するのも憚られ、私語する者もいない。 じっと目を閉じると、父母の顔が浮かぶ。飛行機搭乗員として逝くのを覚悟はしているが、飛練(飛行練習生)を間近にして苦悩する。皆無言で考えているようだ。早いか、遅いかの違いで逝くだけだ、。戦局も熾烈を極めこの体で役にたつならば。「早く逝くことを、お許しください」

「◎第二十九分隊第四班伊原公男」

明記して提出しする。

兵器要因

外に出ると今までとはうってかわり、まぶしい。整列して宿舎に帰る。居室では誰も無言だ。課業は中止である。皆それぞれ思いを巡らしているようで常とは違う。 夜の温習時も全く記憶がない、何時も叱咤している教員も我々の苦悩を察してか、誰も教員室から出て来ない。 巡検ラッパも何時もより胸にしみる。十分もたたぬうちに寝てしまうのに、なかなか寝付かれない、あちこちで寝返りを打っている。

「0兵器」とはどんなものだろうか、海軍だから海に関係あるはずだ、司令が云われた挺身肉迫一撃必殺の新兵器とは?もし選ばれれば遅くて半年で死。両親や友の顔が浮かぶ。このような堂々めぐりを繰り返す、いずれ「飛行機」でも死。「0兵器」でも死。只早いだけ、国のため海の藻くずと消えても、必ず後から続いてくれるだろうから、新兵器での死は決して無駄にはならない。父母も許してくれるだろう「お父さん、お母さんおやすみなさい」やっと気持も落ち着き眠れたようだ。

何日かして何処からともなく「0兵器」は「水中特攻兵器」「特殊潜航艇」らしい耳に入って来た。教員室に一番近い一班の班員からだと云うので、皆それを信じた。八月三十一日、総員集合が掛かる。中川分隊長の話で「0兵器要員」の発表であることを知る。先日の司令の話が鮮明に思い出され胸が締め付けられ蒼白になる。

選ばれれば、遅くとも半年で死あるのみ。発表する常森先任教員も、うわずった声での人選の発表だった。

「第一班・・練習生、・・練習生」「第二班・・練習生、・・練習生、・・練習生」次々と前に出る。次は三班だ! もう脈が音をたてて高鳴り、震えが止まらない。「・・練習生」次だ!全身が硬直する。「・・練習生、・・練習王」「第四班」と聞いたとたんに我に返る。自分の班だ。「・・練習生」「・・練習生」「第五班・・練習生」選ばれると信じていたのに呼ばれなかったのに選に洩れた「悔しい気で一杯」である。その反面では選ばれた友には悪いが「これで飛行機で死ねる?」とも考え、平静を失っていた。「第八班・・練習生」「・・練習生」以上二十八名。(二百四十二名中)

我々の前に出て整列している友に目がいく、胸を張り、落ち付いている。実に立派である。中川分隊長の「兵器要員」を讃える訓辞に続き激励の壮行の会が行なわれた後分隊長に引卒され衛門を出て行った。

暫らくして先の選抜された者達が帰って来た。黙々と所持品整理をし出した。誰かが「此れから?」と聞くと一人が「明日卒業式を行い、特別基地え」と一言だけ云って、また整理を続け、重々しい時が過ぎた。「俺も必ず逝くから、先に逝って、待っててくれよ」と心の中で誓った。

十九年九月一日選ばれた六百余名が丹波市駅に向け堂々たる隊列を組み奈良空を巣立って行くのを第八兵舎前で「帽振れ!」で見送る。皆引きつるような悲壮な顔をして、挙手の敬礼で我々に応えて行くのを目の前にして、出遅れたような気がした。 以下は海軍省人事局長、航空隊総本部総務局長の連名により、甲飛十三期を持つ練習航空隊司令宛てに出された一項です。

0兵器の搭乗員となる者の身分は、従来通飛行科の侭で、特攻術章を附与されたる以後(0兵器要員としての教育終了せば0兵器の特術章-特攻章を附与せらる)に於ける待遇はすべて航空搭乗員と同格、又はそれ以上に取り扱われる。

当時の「0兵器」要員選考基準(戦後の資料)

一、身体強健にして攻撃精神王政なる者
二、心操堅固にして佳く任務の遂行に堪へる者
三、家庭環境健全にして後顧の憂いなき者
四、比較的年齢の多い者

この基準一~三は、開戦劈頭ハワイ真珠湾米軍港を攻撃した特殊潜航艇搭乗員人選考基準そのものである。 四に付いては甲飛十三期の十五~二十才の若者に対して(特に十五から十六)年少者を死地に追い込む事に慈悲を感じ追加されたものと思われる。九月の第一次「0兵器要員」は総て年長者で占められ三年組は一人も含まれていなかったようだ。 また奈二十九会短信「武士の情」篠原氏(同じ四班だった)の手記によれば、 柔道場では◎印を記して提出したのに、はずされてしまった。当然選ばれると信じていたのに、選に洩れ悔しい、どうしても納得出来ない、なんとかしなけれぱと考えているうちに、気が付くと中川分隊士の部屋の前に立っていたと云う。

「自分は此度の0兵器要員の人選に洩れました。その理由を聞きたくてまいりました」と抗議めいた口調でやっとの思いで云う。 「そうか」「お前の他かにも同じ事を云って来た者が三名いた。人選に洩れたからと云って何も悲観することはない。お前等は遅かれ早かれ国のため殉んずる身である。0兵器要員だけが帝国海軍の軍人ではない。血気にはやって、死に急ぐことはない。遅かれ早かれ必ず死ぬ時が来る。その時まで生命を大事にしなさい」

やや間を置いて声を少し落としして、「よーしお折角来たのだからこの人選について話してやろう。人選にあたっては身上調査記録により調べ一人子・長男である者は第一次選衡から除いた。 『これは武士の情である』遅かれ早かれ死ぬ身ではあるが、君達も人の子である。親ごさんの心情をおもんばかっての配慮である。 但し、この作戦を有効に推進するため適性も重視した。冷静沈着な行動がとれる者、二名搭乗する艇であるため、強調性のある者、そのほか運動性・機敏性総合的に判断して分隊長の責任で選衡したものである」「わかったか、その日が来るまで生命を粗末にするな。よーしわかったら帰れ」と説明してくれたと云う。

氏は分隊長が始めて練習生をを一人前の人間として扱ってくれたこと。淳々として慈父の如き響きを持って細々とした説明を受け、涙を流したと曰う。

以後九月に二次と出陣した後、同班員さえもわからぬよう秘密裡に班内から一人・二人、三次、四次と次々と「0兵器要員」」として、また同じ一区の一部は飛練えと離隊して行き残された我々には焦りの色が濃くなってきた。

0兵器

此処で話が前後するが「0兵器及びその要員」に付いて記すことにします。

「特攻戦備への転換」(潜水艦史、防衛庁防衛研修所戦史部より要約)

昭和十九年四月、軍令部は海軍省に対し次のような仮称名(機密保持上「金物」と称した)による兵器の特殊緊急実験を要望した。

1.金物 潜水艦攻撃用潜航艇
2.金物 対空攻撃用兵器
3.金物 金物及び可潜魚雷艇
4.金物 船外機付衝撃艇
5.金物 自走爆雷
6.金物 人間魚雷
7.金物 電探等
8.金物 電探防止
9.金物 特攻部隊兵器

これらのうち、
4.金物(艇と略称の「震洋」)は水上特攻兵器。
3.金物中のS金物(SS金物と略称の「海龍艇」)
6.金物(兵器と略称の「回天」)
9.金物(兵器と略称の「震海」)水中特攻兵器で量産されたが、実用には至らなかった。

同七月十日、海軍省軍務局長は「特殊兵器緊急整備計画」を提案この日「第一特別基地隊が編成され訓練部隊の整備も進められた。

水中特攻兵器概要

「甲標的」搭乗員二名

開戦壁頭昭和十六年十二月八日ハワイ真珠湾特別攻撃隊、十七年五月三十一日シドニー攻撃等に使用された甲標的を、昭和十七年六月から、基地の防御用に使用する為、自己充電能力を持たせる装置が付加されその性能を高めた。既定の建設予定の五十三基を甲型とし、その中の一基をこの改造計画に充当して、乙型とて改造する。(一基のみにて中止)昭和十八年七月に完成し、試験の結果、更に操縦室を改造して丙型(搭乗員三名)とし量産した。

「蛟龍」(甲標的T型)搭乗員五名

排水量五十九・三トン、前頭部に魚雷発射管二基を装備 丙型を更に変更し大型化したものを「甲標的丁型」と称したが昭和二十年五月二十八日付兵器に採用し「蛟龍」と命名され、自己充電能力を強化し、水上航行性を増加し、行動日数、五日の小型潜水艇のようになった。二十年三月特攻兵器として量産され、終戦時まで約百基が完成、未完成のものは五百基以上に達していた。輸送艦上に、二艇の蛟龍と六基の回天を発進させる二本のレールが敷かれ、クレーンで発進させた。決号作戦では蛟龍も魚雷を装備せず、艇首を爆装し、特攻攻撃が討画された。

「海龍」SS金物

排水量十九トン、艇首を六百キロの爆薬にて、艇の外部に吊す魚雷発射筒二基を装備し(ロケット推進薬にて発射)水中有翼の小型潜航艇。昭和十九年八月軍今部第二部浅野卯一郎中佐の発案で同部員の努力によってて試作第一号艇、九月同二号艇が完成し、二十年四月一日付その量産についての海軍大臣訓令が発せられ、同年五月二十八日兵器に採用「海龍」と命名され、終戦時までに二百二十四艇が完成、未完成約二十艇であった。 またこんな説もある。昭和十八年の後期から甲標的を改造して進められ、十九年に横須賀軍港で「回天」どドイツのビーパー潜航艇を参考として、より小さい有翼の潜航艇が建造され、フィリッピンと沖縄の基地防衛の目的に製造され、後に本土防衛の「決号作戦に於ける海軍作戦計画」展開のために各地の特攻戦隊に一隊十二艇編成で二十一の突撃隊に配備される。

「回天」 6金物 搭乗員 二名

前頭部に爆薬を装備し、人間魚雷とも呼ばれ、当初は潜水艦に搭載され艦船に接近し発艦されるも、帰艦回収不能で決戦作戦ては陸上基地に配備され、昭和ニ十年四月二十五日以降十五突撃隊に編入された。他にも編成予定のものが二隊あった。搭乗員が乗艇すると外部からハッチ(出入口の蓋)を閉め自力では脱出不能なために、訓練時、推進力が無くなると(前頭部の薬搭載部に圧搾空気を入れ)浮上するようになったいたが、浮上せず数名が事故死したと聞いたことがある。 「回天特別攻撃隊千早隊、多々良隊」の作戦によって回天による泊地攻撃を困難と認め、搭乗員の練習も向上したので洋上における航行攻撃を試み「回天特別攻撃隊振武隊」を沖縄・マリアナ諸島の中間海域に出撃を令じ、昭和二十一年四月二十七日輸送船団を攻撃しその三隻を撃沈。五月二日沖大東島南々西にて大型駆逐艦、輸送船を各一隻。同七日にも同島南方において特空母(又は軽巡)一隻撃沈した。五月初め「回天特別攻撃隊振武隊」・「回天特別攻撃隊菊水隊」・「回天特別攻撃隊金剛隊」と次々と編成され、出撃し多大な戦果をあげて多くの同期生が海に散って行った。

「震洋」 4金物 搭乗員一名

昭和十九年八月二十九日第一震洋隊が編成された後二十年三月末までに五十八隊が編成、このうちの半数近くは捷号作戦のため準備され二十~三十突撃隊・百一~百七突撃隊・百十三突撃隊等は、天草・石垣島・沖縄・高雄・馬公・海南島・海口・舟山等の警備隊。香港・アモイ特別根拠地等日本を遠く離れた各地にまで、多くの同期生が派遣され同期生戦死者九百七十三名中「震洋艇」による者が一番多かったと云われている。更に五月以降八月五日までに四十六隊が編成された。艇は木製(ベニヤ板)でトラックのヂーゼルエンジンから滅速歯車を取除き高速を得るようにした高速艇で前頭部に爆薬を搭載して敵艦船特攻攻撃用に計画される。 暗夜を利してに特攻攻撃するも、スクリューから出る白い波と、エンジンの高音によって早期発見され、敵艦を目前にして機関銃により、爆破され残念にも海に消え去った同期の友の霊よ安らかにと心から冥福を祈る次第であります。

面会

十月に入り我々の中で噂されていたフィリッピン行は、戦局がおもわしくなくどうにもあぶないらしくなった。何時になったら卒業し飛練にいけるだろうかと不安になる。それならばと次第に要領もよくなり、悪さもするようになった。

深夜炊飯所に忍び込み、「砂糖」・「焼きのり」等を「銀蝿」(盗むこと)した者が何人かいた。時には番兵にみつかり兵舎の周りを二・三周して逃げ回り(番兵は年取った補充兵の水平なので、とうてい追い付けない)隣の分隊宿舎に逃げ込み、番兵が衛兵所に報告に行っている間に自分の兵舎に戻って床に入る。

暫らくして隣の分隊で「総員起こし」が掛かり絞られたという笑い話しのようなこともあった。こんな「銀蝿」も衛兵の数がふやされたので三回で止めたと云うことだ。

「銀蝿」してきた焼きのりを食事の時に、班長の前に一缶添えておくと、ニヤッとしながら無言で食べたのでホッした。また「銀蝿」した砂糖を外出の前に二階の窓から塀の外え放り投げ、衛門を出てからそれを取り、大きな農家に持ち込んでご馳走になった。

外出日が決まると、こっそり家に連絡して民家で面会し、沢山の食べ物を持ち帰り班員に分ける等知られたら大変な罰を食らうようなことをして発散していた。

十九年三月の終わり頃だったか面会が許され、多くの練習生の親兄弟が赤飯やボタ餅大福など一杯抱えて面会に来たが、俺は家が遠くて面会には来てもらえず何時も羨ましくて辛い思いをしていた。そんな自分を見た班員が何度か誘ってくれたが行かなかった。

俺にはもう面会など縁の無いものと思っていた五月の外出日に「予科練クラブ」にいると、「伊原練習生、貴様の親が来て捜していると、他の分隊の奴が云っていたぞ、すぐ会いに行け」と教えてくれたので飛ぶように兵舎に向かう。

途中の田圃道を両手に荷物を持ってしょんぼりと歩いて来る二人がいた。もしや、と駆け足で近付くと、なんんと幸運にも父と母だったのだ。あんなに嬉しかったことは無い。あちら、こちらと捜しあぐねてぐったりとしていた。もう時間もあまり無い、残念だが会わずに帰らねばとガッカリしていたと云う。近くの民家に訳を話して部屋を賃り半年振りに語り会うことが出来た。餓鬼のように食べる・話す。ほっとしたのも束の間あわただしい一時間余だった。今日は皆にやっとお返しが出来るぞ、オハギの包みを腹に巻き隊に帰る。

これらとは別のことだが、こんな悪いこともした。今考えても、よくもあんなことをしたものだと思うことがあった。

各班の障子が閉まっていたから四月の初め頃だったと思う、毎夜寝具を下ろす前に掃除をし半数は廊下か外に出て終わるのを待つ間に軍靴を磨いたりした。その日の巡検も終わりそろそろ寝就く頃、当直下士官が大声で「貴様達の中に身の回りの整理も出来ない不心得者がいるッ。先程靴箱を点検し磨いていない靴を没収した。心あたりの者は明朝総員起こし十分前に教員室前に集合せよ」で終わる。

皆一度に行くと怒られるので二三人ずつ見に行き、安堵した者、落ち込んで帰って、くる者もいた。自分のはと…無い。確かに磨いたのに、何故だろう。平静を装い部屋に帰り床に入るも寝就けない。種々と思いを巡らせる。なんとかして取り返せないか、いや見つかればバッタの十本はくらうだらう。考えれば考える程寝れなくなってくる。ようし決行しおう。二階の倉庫にある。どうしたらよいかと暫らく考える。十二時過ぎだったろうか。開けた障子を静かに閉めて廊下に出る。教員室前のスリッパを手にし抜き足差し足。階段の中程からそれを履き、パタン・パタンと音をたてえ上がり倉庫の電灯の「スイッチ」を入れわざと音が出るように戸を開け「オスタップ」(掃除用の水を入れる桶)の中から靴を取り出し、来た時と同じようにして階段を下りて靴箱に入れる。「スリッパ」を戻し静かに床に入る。とうとうヤッタ胸がドキ々々と激しくなかなか寝ることが出来ない、寝たと思ったら「総員起こし」長い々々一夜だった。

しかし朝食前に当直下士官から「昨夜没収した軍靴を抜き取った者がいるッ。心あたりの者は直ちに申し出よッ」もう胸が高鳴るそれを知られまいとして必至になって平静をよそおい、知らぬ顔をして午前の課業を授けた。

昼食時にまた「昨夜軍靴を抜き取っった者は今からでも遅くない申し出よ」と云われぐっと胸をおさえてだんまりを決めた。このために皆が罰直をくったはずだが、どんな罰をくったか覚えがない、分隊の全員に迷惑を掛けたことは確がなので、遅くなりましたが此処に深く々々詫びると共にお許しの程を願っております。

(平成二年十二月一日の入隊記念日に元第八兵舎に於いて「二十九分隊全国」の集いが行われた際に、分隊員二百四十二名(中死亡者四十六名)から七十三名の多くが参加し、第四班はは十六名もの多くが集まったので、もう一泊することになり大阪で昔を語り会った。その席でこの靴の件を話して皆に詫びたが、大喝采を得た。)

二度目の正月

2度目の正月

十一月下旬四回目の「0兵器要員」が退隊して行き三十名いた班員も歯が抜けるように減って来た。寂しいようでもあり、また行き遅れたような気持ちになると共に焦りもつのるが、こればかりは「待つ」より外はない。来年になれば「飛練」に行けるだろうと落ち着きの無い日々を過ごした。

海軍なので和舟ぐらいは漕げ無いと恥じだと云うので、第八兵舎前の数十米四方の溜池で、(奈良にはこんなののが至る所にあった)分隊長直々の指導で実習が行われた。懸命に漕ぐのだがすぐに櫓がへそを離れて巧く出来ない。翌日は少し身に付いて池を一周出来るようになった。中には二・三日目でも巧く出来なくて、水に浸した太い麻の「ロープ」で尻を叩かれる(艦上勤務での罰直はこれで)痛いこと。一週間程て終わったが、海の無い海軍兵を慰める親心であったのかも。

奈良の冬は厳しい、霜住の立っている処での「前え支え」や靴を泥んこにして、走り回ったりしていだが、十二月に入り吹きっさらしの屋外で「九九艦爆撃機」の起動法を教えられたが、喜びと緊張で寒さ吹き飛んだ。

整備科の教員による起動法の実習だった。初めはためらっていたが、耳をもつんざくような物凄い轟音と強風、耳をおおいながら高回転する「プロペラ」や激しく振動する機体を見ながら飛練え思いをつのらせた。

十二月になって、予備士官の航空学講義を小人数で聞いた後に、二十粍機関砲の実弾を見せられ、その種類(当たると突き破る・中に入って破裂する・当たると破裂する・光の尾を曳く)等の話を聞いた後に、数発の実弾が配られた。「扱いが悪いと弾が飛ぶぞ」と云われ初めての実物を恐る々々手にする、大きくてずっしりと重いのに驚いた。薬筒の長さ二十糎以上、太さ三糎余りもあったろうか、その先に直径二糎の弾がはめられこれが飛んで行く。共感の話しでは整備中に誤って発射され、整備兵の胸の上部に当たり、首がふっ飛んだと聞かされ更に恐くなった。

入隊して二度目の正月を迎え夕食は特別献立の御馳走だった。(海軍では満艦飾と云ってその日には御馳走が出る一月一日・二月十一日・四月二十九日・五月二十七日・十一月三日)もう一つの楽しみは、此等の日に式典に出る士宮の軍刀を見ることだった。

通常は短剣を吊しているが、殆どの士宮は黒地の鞘に金色の帯状飾りを付けた海軍々装をした日本刀を、小数ではあるが中には太刀や短刀を仕込んで吊している士官もいた。色のバランスの良いものには、引きずり込まれるような見事なものだった。これは少々酷かもしれないが、金色が「ギラ々々」して落ち着きがないのは一目して、予備学生出の士官と分かった。

多くの中でも、副司令のはすごかった。唯一人剣を吊るし一万七・八千名の士官・教員・練習生を前にに抜刀して指揮を取るのだからそれはもう勇壮なものであった。

このように、式典に出るため兵舎からの十五分程の所にある大練兵場までの往復が唯一で最大の楽しみでもあった。その日は訓練も無くのんびりと過ごしたはずだが、あまり覚えていない。多分奈良近辺の寺院を回り歩いていたのだろう。

寒い練兵場で卒業記念として分隊全員のと、残った班員とで写真を撮ったのも此の頃だったと思う。

出発

出発

出発

一月の十日過ぎだったと思う班長に呼ばれた。何もまずいことはしていない。何だろうと、「顎」を覚悟して教員室の前
「第四班伊原練習生まいりました」
「おう入ってよ-し」
「伊原練習生入ります」
班長の様子がいつもとは違う。じっと顔を見る。

「貴様の家族は」と云われ 「両親は健在、自分は男ばかり六人兄弟の五男であります」と答へながら、もしや「0兵器要員」ではと感じた。 班長は静かな口調で「0兵器要員に付いてどう考えているか」 「自分は◎印を記して提出いたしましたが何故未だに行けないのですか」と答えたが、「そうか」と云って、やや間をおいて「分かった。帰ってよーし」

数日後また班長に呼ばれる。いよいよ来たぞしかし、二月一日には「飛練」えと囁かれているのに。「俺はもう飛行機に乗れないのか」と悩む。今俺は名誉ある指名を承けるのだ「飛練」に行っても、その先は死。第四班二十九名中、もう七名も行ったではないか、早いか、遅いかの違いだ。此処にいる皆より先に「特攻」で死ねる。そう考えると不思議と落ち着いてきた。

予科練を志願した時から死ぬものと思い覚悟は出来ていたが、間近に迫ってきたことを実感した。「よーし」頑張って一日も早くこの身を投げ出さねばと考えると胸が高鳴った。

班長は悲しそうな顔で声をおとして
「0兵器要員として、行ってくれるか」
「はい。行きます。有り難うございました」
「0兵器要員は二十九日出発することになった。頑張ってくれよ」
「はい。頑張ります」
班に帰り、皆に報せる。
「貴様も行くのか」「先に逝って待っているぞ」「俺達もすぐに後から逝くからなあ、待っててくれよッ」
その夜の温習の時間は細かな送別の会を開いてくれ、知りつくした皆との訣れを惜しみ、種々と持物を交換した。

二十九日午前海軍十三期甲種飛行予科練習生の「予科練習生」の卒業式を終え本部前に集合し海軍中佐垣田司令の訓示の後、五百六十七名は輸送指揮官中川中尉(我が二十九分隊長)に引率され丹波市駅に向かった。

駅までの道の両側には同期生や定員分隊の兵が並ぴ、「帽振れ!」で見送ってくれる中を、「答礼」をしながら行進し駅に着く。駅に待機していた行先不明の軍用列車にて、一年二ケ月に渡り絞られた「三重海軍航空隊奈良分遣隊」を後にした。

大竹海軍潜水学校

車中のあちら、こちらでひそひそやっている。何処え行って、何に乗るのか、皆不安なのだ。誰だったか、輸送指揮官の中川中尉(我が分隊長だった)に話しに行き近くにあった荷物の宛名に「第一特別基地司令」と書かれているのを見てきて、「おい、俺達の行く所は「一特基だ」と教えてくれるが、「一持基」と云っても、それが何処にあるのかは誰も知らない。不安はつのるぱかり。

京都・大阪を過ぎ列車は西え々々と走り続ける。鎧戸を下した列車でも少しは外が分かる。ウツラ・ウツラしているうちに広島を過ぎ暫くすると「下車用意」がかった。まだ真っ暗である。隊列を組んで「大竹海軍潜水学校」と大きく書かれた門をくぐる。誰かが「潜校!人間魚雷だア」と云う。

海の匂いがする。コンクリートの立派な兵舎の棟が並び、舞鶴の海軍航空隊を思い出す。吊り床もありやっと本格的な海軍々人になったような気がした。指示された兵舎で一休みしていると、起床ラッパが鳴る。

ここが「一特基」か よおし、やるぞとばかりに張り切って入校式場まで、奇麗に隊を組み例の駆け足で行く。途中潜校の兵隊が、凄い々々と驚きの目で見ていた。軍艦旗はためく本館前で入校式が行なわれる。名前も知らない司令から「…・飛行兵長以下五百六十七名は特攻兵器取扱い講習員を令ず」

続いて青年士官が立ち(以下「十六歳の太平洋戦争」於保昌二著より) 「俺は今から貴様達の指揮を取る分隊長の乙部大尉(海兵七一期)である。今や戦局は重大な危機にある。貴様等は熟慮の上で飛行機を捨て我が一特基にきてくれた奈良空の清栄と聞く、貴様達を待っていた。良くぞ来てくれた。国難に殉ぜんとする者達だが今日から徹底的に鍛えてやる。命をかけてついてこい。当潜校は仮住である、ここで基礎知識を習得し、本隊である一特基に移動する。一特基は訓練基地でもあるが実戦部隊である」

「俺も貴様達も同し搭乗員である。自分の技倆は自らの手により積極的に練成してくれ。我々や先輩搭乗員から総べてを奪い取り一日も早く出撃し得る搭乗員をなって欲しい」 「全海軍と全国民が絶大なる期待をかけていることを一日たりとも忘れず、困難辛苦をのり越えてくれ。活躍を祈る。」

「第一特別基地大竹警備隊付」となる。次に分隊士(海兵七三期)教員の紹介があった。海を見るのは休暇以来半年振りである。潮の薫りは同しだが、ずらりとカッターが吊されており、潜水艦も繋留されているのが見えるものは全く違ったものだった。

柩の誓い

特攻要員としての訓練が開始される。潜水艦の基礎で座学・テストの繰り返しで、目指すものもベールが一枚々々剥がされようやくにして全貌が見えて来た。

此処での訓練で辛かったのはカッター訓練だった。瀬戸の海は暖かいといっても冬の二月の海である。カッターに積もった雪を手で除き、かじかむ手に櫂を握る。身にしみる寒さもやがて気にならなくなるも、手には血豆、尻は擦れて赤く腫れる。その上で最後の十分間競漕だった。また吊り床(ハンモック)の上げ下ろしとそれを担いで兵舎回りを駆け足させられる。しっかりと縛ってないとフニャフニャになり中の毛布が垂れてくる。他はそんなに気にはならなかった。吊り床は慣れてくると、長距離を担いで走っても少ししなうだけで、それ迄には二・三週間かかった。深夜大きな音がしたので、とんで行くと床から落ちて額を切っていた者もいた。

午前の課業前に分隊士の宗像少尉(海兵七三期)が来た。 「本日午前の課業は中止。総員練兵場に集合」が掛かる。 「只今から二軍に別れ騎馬戦を行なう。ルールは特に無し。残った騎数の多い方を勝ちとする」 「用意、カカレー」久振りに発散出来るので、騎主は殴る・馬脚は蹴るのそれは壮烈なものだった。潜校の兵達は驚き目を白黒?させていた。何回やったか覚えていないが終わってみると、皆フラ々々、顔を腫らしている者や、鼻・口から血を垂らしている者、事業服が裂けている者。こんな状態ではもう闘えないと見て「気魄もこもり攻撃精神旺盛にしてこの上無し午前の課業を終わる。解散」

大竹に行って一週目頃から班長(名前は覚えていないが一等兵曹)の身の廻りの整理をするよう指名され、夜はよく部屋に行き話しを聞き、菓子や、此の地方特産のネーブル?を貰い何かと目にかけて貰い大変お世話になった。ベットの上には大きな軍艦旗があり、就寝の時はそろを掛けて寝る。艦乗勤務で南方えも行った生粋の海軍下士官だった。

そこで内密にと初めて知らされたのは、開戦頭書「ハワイ真珠湾」攻撃に出撃した五艇の特殊潜航艇を改造された五名搭乗の特殊潜航艇蛟龍の搭乗員とし訓練を受け四月には一特基え行くことになっていると知らされた。

二月末だったと思う「総員集合!」が掛かり分隊長から「教程は特潜の概要を終え、専門分野に入りつつある。甲標的丁型(蛟龍の当時の名称)は、艇長と艇付四名の五名で操縦する。貴様達艇付は、水雷・通信・電機・内火のそれぞれの四名でペアーを組む。この五名は常に生死を共にし兄弟・家族以上の仲となる。互いに信頼し得る者それぞれ専門を決め、四人一組のペアーを組んで後刻報告せよ」と云って帰った。

あちらでも、こちらでも俺は「水雷」・俺は「通信」等で二・三日は大変騒々しかった。奈良で同分隊だった難波飛長は覚えていたが他の二名は誠に申し訳無いがどおしても思い出せない。ペアーが決まり、一つの棺桶で死ぬ仲と何処え行くのも共にし、また吊り床も並べて「柩の誓い」をした。

ペアーを決めてからは、艇の構造・機能・操縦法等を今迄以上に身に着けしっかりと頭に叩き込む猛勉強の毎日だった。

任官

大竹に来てからは、洒・煙草・菓子等の配給もあり、入隊三日前から止めていた煙草も不自由はしなかった。何よりも食事は「ギン飯」で、おかずも良く最高だった。数名の教員が付いていたが殆ど口出しはせず、総て「甲板下士官」(分隊の指揮・生活面での取締役)に任され今で云う自主的な生活だった。

此等の事は、つい先日迄絞られた奈良空の頃を思うと異常に思えたが、この時既に特攻編成されており、二十才そこそこの若さで死ぬのだから、侍遇だけは良くしてやろうと云う軍の計らいだったようだ。(総べての面に於いて満足な日々だった)三月の中頃だったと思う。教員から「お前達は三月一日付で下士官に任官している任官お目出度う」と云ってくれた。

任海軍二等飛行兵曹(二飛曹)

今迄は進級だったが、今回は任官でありその喜びは最大のものであった。即日下士官服を受領、「七ツ釦」を返納することになった。机の上に衣嚢の中身を広げて七ツ釦の一・二種軍装(夏・冬服)に見入っている者、せってせとブラシをかけている者。まるでお祭り騷ぎであった。需品庫から五ツ釦の下士官服とその他一式を受領し早速右袖に階級章を、左の袖には普通科マークの一重桜(高等科は八重桜)と、帽子の徽章を付ける。「ボタ餅兵曹」の出来上がりである。(ボタ餅兵曹とは、右袖階級章の上に、在籍三年で一本与えられ山型の善行章が一本も無く、平時ではあまり有り得ない下士官を揶揄した言葉である)

七ツ釦で外出しても「予科練さん」と何か子供のように云われるのが嫌いだった。今日からは五ッ釦の下士官の服を着ることが出来て、大人っぽくそしてまた、一人前の海軍軍人になった喜びを感じた。反面ではこれで飛行機との縁が切れたと思うと寂しさもあったが、俺は飛行機の奴等より先に逝けるのだから、一日々々を大切に生きなければならないと思うと、やっとふっきれた。

午後突然「兵舎前集合」が掛かる。何事かと緊張して集合すると、 「只今から居合い抜きを観せ、其後試し斬りを行う」 年取った准士官が日本刀を差し前に出て、「居合い抜き」の幾つかの形を実演の後用水池から水に浸した藁束を取り、台に刺し立で居合いと同し形でそれを斬つた。藁の一方が奇麗な斬り口を残して地に落ちた。皆は驚き「シーン」となる。次は左右に並べた藁を続けて斬る。それは鮮やかなものだった。

一人が前に呼ばれ「斬ってみろ」と云われ、照れながらやったが、藁を半分も斬ることが出来なかった。前から一人づつやったが誰も斬ることが出来ない。半分も斬れなくて刀を曲げた者がいた。怒られるのを覚悟して、恐る々々教官の前に指し出すと、笑いながら台の上に置き、飛行靴で踏みつけて直して「次の者」と指し出されたのには一同鷺き張りつめた雰囲気も軟らいだ。

特潜

四人のペアーとしっかりと絆で結ばれ「柩の誓い」も更に堅くなった三月の終わり近くに分隊長に呼ばれた。 「貴様は今日迄特攻兵器取扱講習員として良くやってくれているが、此度開発された二名搭乗の特殊潜航艇が完成した。此の潜航艇の搭乗員として行ってくれないか」 「はい行かせて頂きます」と躊躇なく答えてしまった。分隊長は残酷なペアーとの訣れを察してか。 「そうか、有り難う。征ってくれるか。何処で、何に搭乗して殉ずるも変わりは無い。しっかり頼むぞッ」

部屋に帰り考え込んだ。何故あんなに、すんなりと「行かせて頂きます」なんて云ってしまったのだろうか。三人には、何と云って詫びればよいのか。飛行機から甲標的そしてまた特潜。「残酷」としか云いようがない。しかし心の隅で「特殊潜航艇!」なんだかチョッピリ魅力を感じる。ペアーの一人である難波二飛曹が来た。彼も呼ばれて「特潜」行きを承諾したと云ったので少しばかりだが気持ちの整理が出来た。

他の二人にどう切り出すかと思案していると、二人の方から察してか 「俺達は俺達で、また新な奴と組んでやるから心配せずに征け」 「いや、俺達の方が先に逝くかも!待っているぞ!」 とは行ったがその夜はなかなか眠れなかった。

数日後二ケ月に渡って必至になって学んだ第二特攻戦隊(一特基改名二十年三月)を後に約三百名はペアーとの別れを措しみながら第一特攻戦隊・第十一突撃隊付となり横須賀えと出発した。

水上・水中特攻要員採用について(十三期三十二号高塚篤氏より)

昭十九年九月一日 第一特攻基地隊 龍艇(甲標的)
海龍艇(3 SS艇)
海天(6人間魚雷)
昭十九年九月十四日 川棚魚雷艇訓練所 震洋艇(9)
昭十九年十月二十日 第一特別基地隊 回天
同上 川棚魚雷艇訓練所 震洋艇
昭十九年十一月二十日 同右 震洋艇
昭二十年一月二十九日 大竹潜水学校 蛟龍艇・海龍艇
昭二十年二月十五日 同右 蛟龍艇・海龍艇
昭二十年三月二十九日 同右 蛟龍艇・海龍艇

三重海軍航空奈良分遣 同期生水上・水中特攻要員配属経路

海底に眠る特殊潜航艇

話が少し逸れますが、偶然とは思えないので書くことにします。奈良空から特攻要員としで「第一特基」大竹警備付となり潜水学校で最初に搭乗するはずだった特殊潜航艇甲標的(蛟龍)についてです。

今日は平成二年八月十一日です。苗場の西武ウイラで大竹の頃を書いていた午後四時からでした。日本テレビで「マダカスカル海底に眠る特殊潜航艇」が放送されました。特殊潜航艇による真珠湾攻撃とシドニー攻撃については多くの人に知られていますが、マダカスカル島のことはあまり知られていないので書くことにします。

「マダカスカル海底に眠る特殊潜航艇」

遥か一万二千粁の遠いアフリカ大陸南東マダカスカル島北部のディゴ・スワレス英軍々港に沈んでいると云われている特殊潜航艇の噂が何度か日本に聞こえてきていたので、それを探しに行った記録の放映でした。

「地球ヲ半周シ英国艦船二接近シ寄襲作戦ヲ以テコレヲ撃減セヨ」の命を受けて二艇が昭和十七年五月三十日出撃した。
一号艇 艇長 海軍大尉 秋枝三郎 艇付 海軍一等兵曹 竹本正己
二号艇 艇長 海軍少尉 岩瀬勝輔 艇付 海軍二等兵曹 高田高三

「戦果」
 主力戦艦レミリーズ 二万百五十屯  大破
 大型輸送船     一万四百四十屯 撃沈

イギリスのチャーチル首相の回顧録によれば、「我々が築いてきたもの総てを破壊する事件だった」「敵は何処からやって来たのか、それはなんの前ぶれなのか、そして我々は只戸惑い慄然拝となった」と書いているのは如何に衝撃が大きかったかが窺えるのではなかろうか。奇跡とも思える大戦果を挙げるも、その事実を残したまま二艇はマダカスカルの海底に消え四人は帰らぬ人となり、戦後四十五年の今日いまだ海底深くに眠っているのだろうか。

湾内の調査を始めて一週間後ロンドンに派遣されていたスタッフが、英国政府の秘密文書を入手し意外な事実を伝えて来た。それは湾の東方スワロス島に上陸した日本兵二人はアンバー岬付近にて英軍と交戦し彼等は戦死。押収した手帳から伊二十潜水艦々長宛のメモが発見されたと云う。伊二十潜から発進したとすれば、それは秋枝大尉の一号艇である。それが一号艇であるとすれば、意外にも湾を脱出して波高く荒れるインド洋の外海だったのだ。

記録により検討の結果その探索に向かう。当日は珍しく波も無く幸いしたが、潮の流れが早く危険なため、数人のダイバー達は一本のロープを持ち横一列になって陸に向かって困難な探索を始め、三時間後の午前八時十五分ついに発見された。水深十米の海底に一号艇が横たわっていた。艇尾のスクリュー・モーターと長いシャフト・バッテリーが見えるも指令塔から先が無い、これは自爆によるものだ。荒い海の中で、もう重い物しか残っていなかった。その映像を見て涙で霞 何回も何回もビデオを回してやっと特殊潜航艇甲標的であることが分かった。 四人は「特殊潜航艇ハ攻撃後島ヲ回リ、アンバー岬洋上ノX地点ニ急行スベシ、母艦ハ同地点ニテ特潜帰還ニソナヘ待機ス。待機時間ハ七十二時間トスル」(この帰還については、山本長官からの特別指示があったと云われている。長官は如何に人命を尊重されていたか知るこどが出来る。) この作戦行動によって敵艦船攻撃終了後上陸し、二昼夜かかって直線距離にしてハ十粁先の地点近くまで行った処で英軍に発見包囲され交戦し散華された。

また当時わずか生後一ケ月だった竹本一曹の一人娘の方が同行されていて、一人のダイバーが海底に沈んでいる艇に付着していた貝を差し出したのを見た時も涙が止まらなかった。娘さんは「陸地で死んだとは!私は出来れば海で死なせてやりたかった!」と涙されていた。

二人が通った最後の村の長老によると、村で水と果物を貰い、出て行ったが英軍スパイの通告により、村はずれの丘で英軍に追跡包囲され降伏を勧告されるも二人は軍刀を抜き立ち向かい銃弾によって斃れたのを目撃したと云う。この老人の教えてくれた丘には、十三年前にマダカスカル日本大使館員によって建てられた小さな石碑が一つ建っていた。

伊二十潜水艦は会合地点で危険を侵して三日の待機を二日延ばし、二人を待ったと記録に残されている。 一号艇発見後も現地の多くの人々のご協力を得て、疲れきった全員による固難な捜索を七日間続けるも二号艇は発見出来ず、三週間余に渡る日程を終え帰国した。甲標的は二十年始にソロモンに出撃し大きな戦果を挙げている。

出撃に向けて

横須賀

昭和二十年三月三十日横須賀駅に降りると、とてつもない大きな巨木のようなクレーンの連立が目に入った。東洋一の海軍工廠である。それに続く海兵団・海軍病院・航海・工機・通信学校等多くの海軍施設があり、大楠門から海軍通信学校の兵舎に入った。部屋の整理をしていると、棚にお酒が数本あった、これは我々を歓迎するものだと大喜びしてその夜は分隊員で酒盛りが行われた。

大竹の潜校と同じ「吊り床」(ハンモック)だった。大竹では「吊り床下ろせ」で棚から下ろし、よっと吊ったと思ったら「吊り床上げ」で元の棚に格納する。これを一晩にに数回の繰り返しで冬でも汗ばむ程絞られたが、此処ではそんなことは無かった。大竹では慣れないせいか、深夜吊り床から落ちてして怪我をした者も何人かいた。

横須賀の十一特基でば久良知大尉・前田大尉・難波中尉・T准士官・海軍兵学枚を卒業したての小尉候補生二十余名・十三期予備少尉五十余名・先任の下士官十余名(班長)と二飛曹の我々三百余名の小編成だった。(その三百名も通信・工機・航海学校に別れ通信学校の兵舎に入る)

分隊長には前田大尉、分隊士は佐野少尉、他に下士官教員一名がつかれたが巡検時の巡回に来る程度で、一切は我々に任された自主的な生活だった。

横須賀に来た三日目だったろうか、佐野分隊士に呼ばれ「甲板下士官」をやるように云われ、「自分は小柄だし、その器ではありません」と断ったが、聞き入れてもらえず三十分余話合ったがとうとう承諾させられた。

先にも書いたが海軍では隊のある所と艦内では必ず「甲板士官」・「甲板下士官」がいて風紀の乱れを取り締まる役目だが特殊な権限があり、分隊の士気を高め規律を糾す任があり、また生活面での面倒を見て皆から信頼を得て分隊をいましめる纒めなければならないので「総員起こし」から「巡検」まで緊張した日々が続いた。

「甲板」になった翌日下痢する者が続出し二日様子見るも原因がつかめない、特にあげれば大竹では「ギン飯」だったが、横須賀に来てからは麦飯で奈良の時よりも麦が多い。原因はこれしか無いと思い、朝食後放炊所の責任者である主計長(上等兵曹)のもとに交渉に行く。

「嵐特別攻撃隊SS艇搭乗員分隊の「甲板」である。当地に来て数日分隊員より多数の下痢患者が続出し訓練に支障をきたし大変困っている。」

「第一特基では特攻要員として着任以来ギン飯で、献立にも特別の待遇を受けていた。当十一特基嵐部隊に着任してからは麦飯で献立も良いとは言えず、多数の者の下痢も麦飯によるものと思われるので善処されたい」

善行章二本着けた上等兵曹は、若造の云うことを怒りもせず最後迄聞いてくれ、しかも丁重に「分かりました検討させてもらいます」と云った。

何と、その日の夕食からは、「ギン飯」献立も良くなったので食後主計長の処えお礼にいくとニコニコ顔で「あれでよろしいかったでしょうか、以後ご不満がありましたら何時でも云って下さい」

海軍の飯を七~八年も食べた上曹が、ボタモチ兵曹を相手に、上官に対するような丁重な対応には驚いた。十代の少年が入隊して僅か一年三ケ月で下士官になり、特攻要員として厳しい訓練に耐えあと半年も生きておれないと云う哀れみがあったにせよこれも海軍の思いやりの一端だったのだ。

夜分隊に「総員集合」をかけてこのことを全員に話して、明日からの訓練に精進してこの期待に応えようハッパを掛ける。 一日は朝礼から体操のあと三十分程の駆け足から始まるのだが、ある朝走っていると後から予備学生の分隊が追い抜こうとしたので、先頭が横に並んだところで競り合うように少し行って、一気に走りこみ、ぐんぐんと距離をあける。「ザマーミロ」と振り返る。此方は一年間みっちりと鍛えらているので負けるはずがない。このようなことが数日続いたが、歯がたたないことを知ってか、予備学生の方で行き会っても避けるようになった。

海龍艇の構造・機能・操縦法等を分隊長前田大尉の講義で一段落したところで、操縦席の模型が搬入された。 「これは一式陸上攻撃機の操縦席と同じものである。異なるのは座席前の計器類と両横の電源スイッチ板等だ」と教えられた。

一人づつ操縦席に座り電源盤についた「スイッチ」を入れる順番等の操作について教わったが、なかなか覚えられず、間違えたりすると「航行不能」「沈没」と云われ絞られた。その日の講義の終わりに「お前達には一日も早く総てを覚え、身につけてもらわなくてはならない。その為に灯火管制下であるが今晩から小講堂の電灯を朝までつけておく故、何時でもかまわぬ、大いに利用せよ」と云われたが、皆はあまり気に留めていなかった。

ところが深夜に「総員起こし」「兵舎前に整列」が掛かり眠い眼をこすりながら皆を整列させて外にいた分隊長に報告する。

「先刻話した小講堂の利用についてである」「お前達の為に灯下管制下にもかかわらず電灯をつけておいたが、誰一人として利用した者がいない。こんなことでは先が思いやられる」そこですかさず前に出て「甲板の自分が悪かったのであります。自分を罰して下さい。」 「よおし伊原兵曹脚開け」「アゴ」二発。一発で右横にフットビ倒れる。

「明日からは今迄以上に励み一日も早く立派な搭乗員となるよう努力されたい」

この時初めて兵学校出身士官による「アゴ」の凄さを知らされた。大きな奴でも一発でフットンダのである。

海軍兵学校に入校から卒業までに貰った「アゴ」を数えた生徒がいて、なんと七百数十発も貰ったというのだから、知らぬ間に殴り方も覚えるそうだ。

初搭乗

四月末に海に慣れる為か、また多少の息抜き向きもあったのか三百屯程の船で横須賀―油壷間を一日がかりで往復した。波は小さく、空も青く晴れ渡り、海から見る陸地の景色に添えて富士山もはっきりと見えて、それは素晴らしい一日の航海だった。

海龍搭乗のペアーが決定した。

艇長 海軍少尉候補生 崎浜秀男(海兵七十四期)

艇付 海軍二等飛行兵曹 伊原 公男

ペアーは兵学校出身の少尉候補生・予備学生出身の少尉・同期とがあり、自分のペアーはついていた。兵学校出とは最高だった。後には兄のように思えた。

艇長は沖縄那覇出身でゴツイ顔をした小柄の人だった。 この人と一緒に死ぬのだ。これからは何をするのも一緒。よーしやるぞ、頑張るぞと心に誓った。 中旬から先任者の搭乗訓練の監視を兼ねて、艇長の指示による監視船の操舵訓練が始まった。 監視船の任務は訓練艇が曳航している「タコ」(艇の後部に着けた数十米のワイヤーの先に着いた赤色の細長い小さな浮標)を監視しながら追跡し、海龍艇が危険状態になった時に船から発音弾を投下して訓練を中止させる。

初めは指示された方位を保とうとしても蛇行して真直に行けなかったり、船に酔ったりして苦労したが、三回目頃からやっと安定した。 海が荒れている日は、潜航している艇はいいのだが、小さな「タコ」を見失った時もし事故があったらと必至になってそれを捜し、見付かった時にはほっと胸を撫でおろしたことも幾度かあった。

初搭乗が決まったのは五月の初めの頃だったと思う。三日前に搭乗を知らされてから、電源スイッチ・羅針盤・深度計・操縦の仕方等を頭に叩き込む。それほど緊張した毎日が続いた。〇九・三〇(午前九時三十分)初搭乗なので緊張してコチコチになり、当直士官の前に行き「艇長崎浜少尉外一名只今より搭乗訓練出発します」と報告し許可を得て整備員が待っている艇まで駆け足行く。

まず、艇長が入る(出入口が小さいので、両足を入れ、両手で体を支え、椅子の背もたれを探り足場として、両手を上に万歳のようにして体をいれ、前後部座席の中央部にある潜望鏡を横になって避けて座席に着く)艇長が座席に着いたのを確認して、真下の前部座席立ち「ハッチ」を閉めてから席に着く。

艇長の「出発準備」でヒッパタクようにして数個のスイッチを入れ、羅針盤・深度計・操縦桿・フットバー・フラップ・底部のバルブ等を4秒単位で点検確認し「出港用意ヨシ」 「エンジン始動」「エンジン、ヨーシ」 これで総べての準備が出来た。

「後進微速」でスイッチを入れると艇は静かに動き出す。 艇長は、潜望鏡にしがみつきながら「オモーカージ」右足で静かにバーを踏みながら羅針盤を見つめる。係留ブイから離れる。

「モドーセー」「停止」「エンジン航走」艇長はクラッチを入れると同時に操縦桿を引き下のノブヲ固定する。

「方位何度」と指示された方位を羅針盤で確認し、外れないように足をこきざみに踏みながら水上航走する。(水上は「エンジン」・水中は「モーター」で)やがて沖に出ると「工ンジン停止」「第二戦速」「第一戦速」でモーターのスイッチを入れて、 「潜航用意」でノブを外す。

「潜航」「深度五」(深度五米) いよいよ潜航だ操縦桿を少し前に押し、深度計を見つめ深度五手前で水平に戻す。 この間とこれからは、両手で水平蛇・フラップを、両足で垂直蛇を操作して方位・深度を保たねばならないので最も苦しい時だった。 「海上航走」「潜航」を幾度か操り返して係留桟橋に戻り、最後に「スイッ」を切った時はほっとした。そして「ハッチ」を開ける。「シュッ」と音がして、外の空気が入ってくる、ひんやりと甘い。潜水艦試乗の時を思い出した。狭くて薄暗い電灯の光、太いのや細い管が上と横に走り、重く苦しい遮蔽扉等息苦しい艦内で二時間程の潜航の後浮上した時に初めて空気の旨いことを知った。

無我夢中で終わり、失敗はなかったのかと気に留めながら上陸したが「文句無しヨカッタゾ」と誉められたので、疲れもふっとんでしまった。二人で並んでニコニコ顔で話ながら兵舎まできて「次も頑張ろう」と云って別れた。

訓練中は、計器類と配電板盤スイッチしか見えず、外が気になり大変不安だったが回を重ねるにしたがって、艇長を信頼することにより落ち着き、何も考えず無心になって羅針盤場だけを見つめ、操縦が出来るようになった。

搭乗訓練は以後三~四日おきに一ケ月ぐらい続けて行われたが、後次第に間隔が開き、なすことも無く、ぼんやりと過ごす日が多くなった。

一日兵舎でくすぶっていても、しょうが無いので海軍工廠え行き(搭乗服を着でいると衛門で咎められず、何時でも自由に出入出来た)海龍艇造艇の工程を見学したり、女子挺身隊員と話したりして時を過ごした。

丘の向こうに軍艦がそうさ繋留されマストの先から板を縄で編んで、両舷一面に垂らして艦を擬装していた。太くて長い主砲があり全体から威圧を感じるような雄姿をかいま見て、もしかしたら戦艦?でも少し小さいようにに感じ近くの工員に尋ねた。「戦艦長門です」と云われ船首に行きよくよく見ると金色に輝く「菊の紋章」が目に入る。そうか「長門」か、でもどう見ても小さいようで半信半疑の思い出帰ってきた。

二~三日続けて見に行き、艦橋・煙突・マスト等を見てよっとこれが「長門」と信じられるようになった。

海軍工廠では震洋(船体はベニヤ板製、エンジンは「いすず」トラックの減速歯車を除いたもので、相当なスピードが出ると云われ大きなモーターボートのようなもので前頭部に爆薬を装着填)人間魚雷も造っていたので、中を見せてもらったりした。

悲しい事故

五月の中旬だったろうか先任の同期生が搭乗して最高深度試験の潜航中に沈没した。皆は「えっあの人が」と蒼白になった。ニ日目に引き揚げられれその夜は全員でお通夜をして翌日儀杖兵の見守る荘厳な海軍葬で送った。 これからと云うのに訓練中に逝くなんて、さぞ心残りだったことだろうと思うと胸が裂けるようだ。「後に残った我々が頑張ることがニ人の為にも」と心に誓った。後の調査によりこの事故は「バルブの故障」による浸水のためと判明した。

それから一月後に自分の目の前で起きたもう一つの悲しい事故があった。

初夏の雲一つない晴天で海も静かで、沖に出ると富士山も美しくはっきりと見えた日だった。(こんな日は午後に海は荒れると云われていた)

海龍艇五艇を第十一突撃隊基地、三浦半島の油壷)まで回送することになり、その監視員として予備学生少尉が指揮する監視船に同期の五名と同乗した時だった。朝何時もの訓練時より遅く横須賀基地を出港した。暫くは順調に航走していたのだが観音崎の灯台を右に見て曲がり少し行くと今迄視界にあった五艇全部を見ることが出来なくなったので、一・ニ・三と前後の艇を確認しながら暫く進む、最後尾の艇が半島の蔭からなかなか現れない。でもすぐに来るだろうと、じっと見ていたが先の艇との距離が開きすぎるので少尉に知らせる。

すぐに反転して全力で半島東方に出ると、灯台の下の岩場に座礁していた。これは大変なことだ。なんとしてでも艇に近付きたいのだが岩場のため危険なのだ。やっとの思いで数十米の近くまで近付き「手旗信号」を送るも返答無し。なおも続けるがやはり返答は無い。航行不能と判明したなら、艇まで泳いで行き救助する外は無い。数分も経過した頃には艇は動き出し後進して岩場から離脱した。おう「ヨカッタ」と胸をなで下ろす。

搭乗員の安否・故障の有無を確認して無事と分かる。ホットしたのも束の間他の四艇が気になるので急いで後を追う。半島を右回すると少し波が出てきた。全速力で暫く進み四艇を確認して反転して事故のあった艇を確認しまた前えと数回繰かえす。なんとかして全艇無事油壷基地までと祈りながら進み剣崎灯台の近くまで来た時にはもう波は相当高く艇は波間に隠れたりしたうえに進みが遅いように思えたので近付いて様子を見る。

やはり少し遅くなっている。そのうえ通常より沈んで「ハッチ」の近くまで海水に浸っている。何か異常があるようだ。少尉にに状況を知らせ急いで艇の近くまで行き監視船を停止させ艇を吉見続ける。

「少しづつ沈み出した!」

潜望鏡だけを海上に出し、やがてそれも見えなくなった。 じっと海面を凝視する、暫らくすると前頭部から突き上げるように浮上し、水平になったとおもったら前から少しづつ沈みだした。 垂直(逆立つ状態)になり、後尾の「スクリュウ」を回しながら、海面に渦を残し再び海面から消えて行った。 急いで、陸からの距離と、岸の岩と陸地の目標物を直綿上に二点づつ左右にとらえそれをしっかりと頭に入れる。 じっと海面を見詰める。艇外に排水している空気の泡が浮き上がってきたがそれも無くなる。必死になって排水の努力をしているのに浮上してこない。 あのような状態ではかなり浸水していると思われる。 バッテリーが海水に浸ると強烈Gな毒ガスが発生すると云うから、ガスにやられて苦しんでいないだろうかなどと頭に浮かんでくる。 どれくらい時間がたったろうか三十分いや一時間も経過したろうか、既に太陽も低くなっていた。

もう浮上しないと思った時には、今迄気にならなかった波も大変高くなり、監視船は木葉のように揺れて何かに掴まっていないと立っておれない。

なんとかして基地に通報せねばならないのだが波が高く海岸に近付くことが出来ず船も通らない。幸い灯台のすぐ前だったのでこれに頼るしかない。

「手旗信号」でと思っても船が揺れるので一人では立っておれず、二人がかりで船体にしがみつき体を支え手旗を振るも応答無し。少し休んで再開すことしばし、やっと見付けてくれた。

「ヨコスカチンジュフマデレンラクコウ」

「○○○○ジカイリュウテイチンボツ、キュウエンタノム」

このわずか二行の交信に随分と時間がかかり途中で暗くなり、懐中電灯での発光信号でやったがなかなか受けてもらえず「サラ」「サラ」(分からないので、もう一度繰り返せ)の繰り返しだった。

高い波間の木の葉のように揺れる船上から、必至になっての長時間の送受信に全員疲れきってぐったり口をきく者もいない。 「ヨコスカチンジュフリョウカイス」を灯台から受けるまでは二時間以上もかかりあたりはもう真っ暗。見えるのは灯台の光と、白く砕ける波頭だけだった。

疲れた体に鞭打って、「チョウジカンニワタルゴキョウロクヲカンシャス」とお礼を送り油壷基地えと向かう。時間はもう八時を過ぎていた。

波が高く横波を受けるとすぐ横転する恐れがあるので、陸地を後に沖え々々と行った時大変不安だったが一切を船長に任せるしかなかった。 一時間程して機関が停止し船内は真っ暗になった。悪い事が重なるものだ、機関士は懐中電燈でエンジンを照らして懸命に頑張っている。

波に任せて漂流するより他は無い、明日になり明るくなれば救助してくれるだろうと考えるのだが、目の前での沈没、そして漂流、不安と云うかなんとも書き現せない気持ちだった。 ずいぶんたってから、他の船のエンジンの音が微かに聞こえてきた。やがてその音も大きくなり、こうこうと明かりを照らした一隻の船が来た。懐中電灯を振り大声で叫んだが遠ざかってしまった。暫くしてまて先刻の船が来た。我々を案じて基地からの捜索船だ、今度は近い助かったと思い電灯を振り、わめき叫ぶも互いに高い波間に阻まれて行ってしまい一段と不安・悲壮がつのる。 夜もふけて、心身共に疲れきっているので、二名交代で休むようにと話合っていると音が聞こえてきた、「機関が動いた」。皆喚声を挙げて喜んだ。

微かに見える星を頼りに方位を測りやや行ってから舵を右に進むと城ケ島の灯台が見えた。「やっと助かった」と皆の顔にも笑顔が見られるようになりやっとの思いで油壷基地に着いたのは夜中の一時過ぎだった。 十人程の同期生に迎えられ冷えた夕食を食べる。十一時間近く何も食べていないのにあまり食べれず出された酒にも口をつけなかった。午後からの事を思えば当然なことだった。種々と積もる話もあったのだが明日の捜索に備えて寝る。

早めに朝食を取り昨日の疲れも忘れ監視船にて剣崎え急行す。 二隻のカッターに分乗して、おもりをつけたロープで繋ぎ海底を這わせるようにして一時間程捜すも手応え無し。 午後に横須賀からクレーン船と潜水夫や数隻の船に多数の作業員が着き捜索が始まったので、近くに行くと昨日見定めた所と違った所に潜っているので直ちにクレーン船上にて指揮をしている少佐の前に行く(普段はとても近づけない)

「嵐部隊搭乗員伊原兵曹お願いがありまいりました」「昨日監視船に同乗しておりました折に沈んでいると思われている場所を確認いたしました」「現在作業中の所は自分が碓認した所とは違います」と言って、昨日確認した陸上の目標と沈没していると思われる所を指差し「直ちに場所を変えての捜索をお願い致します。」

「貴官の言っていることは理解出来るが、現在作業中の所は昨日監視船を指揮していた少尉が申し出た所なので、申し訳無いが、土官の申し出を無視して下士官の君の言っている所を直ちに捜索することは出来ない。現在捜索している所に無いと確認された後に貴官の申し出た所を捜索するから待て」

何が指揮官だ「あの予備少尉め」と頭にきて岩場に上がる。

「あんな所にあってたまるか」もう沈没してから既に二十時間も経過している残念だが生存は望めない。

「苦しまないで逝っただろうか」そればかりが気になり捜索海上を眺めていた。 とうとうその日は発見出来ないまま暗くなり、捜索は明朝再開することとなったので近くの村の民家に泊めてもらった。

昨日今日とさがす心身共に疲れ果てぐったり。床に入るとすぐに寝てしまった。二日目早朝、捜索開始前に再度指揮官に会いに強硬に申し出てやっと承諾してもらい内火艇に同乗し海上に出て、左の陸地の目標二ツを結んだ線上からさらに右の陸地の目標二ツを結んだ線上で停上し、前方三十米の海面を指差すとそこに潜水夫がブイを投下してくれた。

種々と準備に時間が掛かり十時頃になりやっと二人の潜水夫が潜り十五分程の後海中から小さなブイが浮上した。 「沈没艇発見」の合図だ。やはり自分の記憶は正確だ。 四十五時間近くで発見するも、もはや生存の見込み無し。ただ「冥福」祈るのみ。

引き楊げ後直ちに横須賀海軍工廠に運び沈没原因等を調査するので、クレーン船を移動し引き楊げ作業に入ったのを見届け、海面に手を合わせ油壷基地に帰る。 午後奈良空で同分隊員だった二人の兵曹の案内で基地内を見て回り、タ刻手配のトラッックの荷台に乗り二一○○時頃横須賀基地に帰着した。

沈没艇は引ぎ揚げられ翌日夕刻○○ドックに着くのでその翌日○九○○より解体作業開始と決定された。

二日間に渡って沈没原因が究明された。 「艇長の手帳が発見される」それによると、観音崎の座礁は意識的なものだった。艇の底に海水が溜り過ぎたので、座礁してそれを艇外に排水する為だった。時間がかかったが排水し終わり離脱に成功し油壷基地に向かうも途中でまた海水が溜り排水不能のまま航行せしも剣崎燈台近くにて沈没す。

脱出不能、カス発生のためか意識朦朧となる。 ○○○○時「艇付き」「グッタリ」となる。自分も苦しくなる。で終わっていた。始は整然と書かれていたが次第に乱れ、終わりはやっと読みとれたと知らされた。

沈没原因は観音崎で海水を排出時「バルブの操作ミス」との結果が出された。 思うだけでもゾットする、またかとあれ程うるさいと思うまで、何回も何回も繰り返し叩き込まれた操作なのに「何故」と思うと「残念」でならない。 沈没艇の艇長は予備学生少尉、艇付きは同期のH飛曹で五十年近くたった今でもあの「スクリュウ」を回しながら沈んで行った艇がはっきりと浮かんでくる。 「安らかに」と祈るのみ。

翌々日横須賀嵐部隊にて海軍葬で送る。

魚雷発射訓練

一週間ばかりとだえていた訓練も再開され、搭乗する間隔も縮まりいよいよ魚雷発射訓練が近くなった。 六月の始だったと思う、艇長が海兵出身だったせいか分隊での最初の魚雷発射訓練に割当てられたのを知らされた。 二日後に迫り朝から寝るまで操縦の手順を頭で何回も何回も繰返しそれは緊張の二日間だった。魚雷はそのものより少し長い筒に納めれ、その後部にはロケットの噴射薬が装填され、浮力が零になっているものを艇外底部のレ-ルに二基固定されていて、ロケットの推進力で魚雷が押され筒の頭部の離脱魚雷が発射され、その反作用により筒が艇の後ろに離脱するようになっている。 一方の魚雷・筒が離脱しても浮力が零のため、艇は横揺れし方位が少しズレルので、舵を少しばかり強めに踏まねばならない。 魚雷発射の当日は朝からとても緊張していた。

一○○○時当直士官に搭乗許可を受け、艇の座席に着き左右のスイッチを入れ計器を確認「出港準備ヨシ」と報告した時にはもう何時もと変わらず平静になっていた。

『後進微速』『オモカージ』静かに足を踏み羅針盤を見つめる桟橋から離れる。 『停止』『舵モドーセー』 『エンジン航走準備』『エンジン始動』『エンジン航行』艇長がクラッチを入れる豪快な音を轟かせ前進する。操縦桿を引き足下のノブで固定し指示された方位を外れないよう羅針盤を見つめ足を小刻みに踏む。何回か変針し指定海域に到着す。 『エンジン停止』『第二戦速』モーターのスイッチを入れる。沖に出たのだ。 『第一戦速』モーターの回転を上げる。 『潜航用意』ノブを外す。『潜航用意ヨーシ』『深度五』(深度五米)『潜航』操縦桿を前に押し(水平蛇を下げる)深度五少し手前で水平に戻す。 『深度ヨーシ』これからは両手でフラップと水平蛇を、両足で垂直舵を操作し方位と深度を保たねばならない。 羅針盤と深度計をにらみながら手と足を小刻みに動かす。

羅針盤も深度計も微動だにしない、「ヨーシこれでいいのだ」「艇長早く々々」と心で叫ぶ。 『雷撃戦用意』ようし来た。行くぞとノブを握り「雷撃戦用意ヨシ」 『魚雷発射』『撃て』バアーン・ガラガラと音が足に響き艇が大きく横に揺れる(この時ハッチの縁が頭に当たり数糎の裂傷を負った者もいた)揺れはすぐに治まった。後から『オーヤッタゾ・ヨクヤッタ』と声がして、我にかえる。ほっとしたが全身汗でビッショリだった。

『浮上』の声で「操縦桿」を引く『オモカージ一杯』で一八○度反転しエンジン航走にて帰途に着く、大仕事やりとげた後のように満足感で一杯で、言葉には現せられない喜びでもあった。 桟橋に係留し総べのスイッチを切りハッチを開けるとシュッと音をたてて冷たい空気が入ってきた。全身の汗も引き身も心も洗い清められたようだった。 上陸して当直士官の前に立った時は「ヤッタゾ俺は遣り遂げたのだ」と誇らしい顔をして「雷撃終了」の報告を終え二人共笑顔で兵舎に帰る途中艇長がこんなことをい言った。「貴様の予科練での成績が悪いのにはガッカリしたが、操縦の腕は嵐部隊『一番』安心して艇を任される。これからも頼むぞ」と、その時自分も良い艇長に付けて良かった一緒に死の日迄頑張ろうと言う気持がさらに強くなった。

魚雷発射訓練を終えてからは、搭乗訓練の間隔も十日に一度と長くなり何もせずに「ボンヤリ」と過ごす日が多くなったので、、海軍工廠に行き海竜・、人間魚雷・震洋等の建造課程を見学したり、女子挺身隊員に会いに行くか、陸揚げされた小船の上で昼寝をしたり、隊の居住区の巡回をしたりで退屈な日々が続いた。

この頃から毎夜の様に東京・横浜の夜空が米軍の空襲で真っ赤になり大変奇麗に見えたが、その下では沢山の人々が亡くなられたことや、またその悲惨さを後になって知った。

七月の初め頃からだったと思うが横須賀でも、日中空襲警報が発令される日が多くなり、高台の下を掘った大きな防空壕に避難させられる日が続いた。

その壕の中で偶然一緒になったなた四十才近くの痩せ細った水兵と話した。

毎日腹が空くことや月に一度外出で街に出てもお金が無く、この歳になって海軍に招集されて大変苦しい思いをしていることを聞き、「死」が待ってる俺達の物に恵まれた生活と比べるとあまりにも可哀想に思うとともに、奈良空に入隊した時の空腹時を思い出した。その日の夕食後に兵舎前に来るように言って壕を出た。奈良空での入隊時は山盛の飯を食べても腹が空いてどう仕様もなかったが、今では軽く一杯食べれば満腹になり、毎食時に配膳した状態で残りが出ていたので、それをと思ったのだ。

タ食後外を見ると来ていたので中に入れ用意した山盛のギンメシとおかずを与えるとその早いこと、平らげて「ご馳走様でした」と笑顔で言ったので「明日も来ていいぞ」と言ってやったら喜んで帰って行った。

翌日からは一人増え二人増え数日後には、なんと十数人も居たので「何をしているのか」と聞くと「食事を頂けると聞き呼ばれるのを待っております」と、可哀想だったが、あまりにも多過ぎるのでその日で止めにした。 会ってから十日あまりたった日曜の朝、外出前の整列の中に彼がいたので定員分隊の班長や分隊士にわからないようにして、五円札を一枚小さくたたんで手渡してやったこともあった。

あの時東京の何処かの社長だと言っていたが、どうしているかと今でも時々思うことがある。 此の頃から兵舎の吊り床を吊るす鉄骨の梁に厚い板を並べ毛布を十枚程重ね敷き三畳程の専用の室らしいものを造り食事も運ばせ、空襲で皆が待避しても一人そこで寝ていたことが多かった。

下に降りて運悪く当直士官と出会っても「巡回中であります」と言えばとがめられずにすんだ。

六月末か七月の初めに十四期生が百名余り着任してきたので、その面倒をみることになった。少しばかり忙しくなったがたまに一人二人「顎」をくらわすか、お説教をしただけであまり「絞」らなかった。そのせいか、酒保のあった時など呼びに来て、ビールやウイスキーを飲まされ帽子に入りきれない程の草煙を持ち帰されたことがあった。十四期生は一度も搭乗することなく終戦を迎えたようだった。

此の頃になるとそれぞれ要領が良くなり朝礼に出ないで隠れている者が目立ったので隣の分隊の甲板下士官と見回りに出た。定員分隊の洗濯物干し場に五十余名の十三期生と十数名の十四期生がいたので全員一列に整列させ両端から二発づつの「アゴ」の制裁を加えたが、丁度中央にきたし手も痛いので止めようとしたのだが隣の甲板はなお続けて左え行ったので自分も右えと続けたが、あと数名になった頃は殆ど手の力が抜けていた。

お陰でその日の朝から三日程は手が腫れあがり箸も持てずいつもの倍程の時間でやっと食べることが出来た。この時人を殴れば自分も痛いと言うことを始めて知る。

十日程の後だった同期の一人が前から再三逆らうので対決することになった。 背丈は自分より少し大きくて、体重もあり強そうな奴だったば、かまえると同時に腹に一発、前かがみになった処を顔面に一発喰らわすと倒れ、起き上がって向かって来たので、それをさらに顔面に一発くれてやるとまた倒れた。ようやく起き上がったのでもう一発とかまえ相手を見ると左目から血が滴れている、二発とも眠に入ったのだ、その時止めに入った者がいたので止めることが出来た。それ以後は誰一人として逆らう者も無く皆指示に従ってくれたが後ち々々も暫くは気になっていた。

七月下句だったか昼過ぎだった。今迄はB二十九の空襲でたまには横須賀上空に飛来るしても一万米上空を通過するだけだったので洞窟に入るのが馬鹿らしくなり兵舎近くの待避壕に人ったところ艦載機グラマンが低空で襲って来た。基地の高射砲や機銃の対空砲火に敵機の爆音と機銃の音の凄かったことが頭にこびりついている。

三段ぐらいの階段を下りた入リ口にいたのだが、ヒュルヒュルーバサッと音と共に何かが落ちて階段の板に刺さり、くすぶっている。拳大の高射砲の破片だった。

奥の方でも覆いかふせた土を貫き一ツ落ちていた。こんな処で死んだらツマラナイ艦載機の百五十キロ程度の爆弾で鉄筋三階造りの一階なら大夫夫だろうと兵舎え走ったとたんに後方から爆音と共にバリバリバリト機銃掃射の音がしたので道端の溝に伏せ敵サンが通過したのを確認し兵舎に飛び込み助かった。もう大丈夫と窓から眺めていると正面から超低空でバリバリと来たので思わず横の壁に身を隠した。

暫く続いた空襲も解除されたので、外に出て被害状況を見て回ったが先刻の溝の両端に二米程の間隔で機銃弾の跡があるのを見て「ゾオッ」とした。

前日までマストから板を束ねて擬装されていた戦艦長門の艦橋に被弾し艦長が戦死されたと聞いたので工廠えと走った。擬装されていた板は一枚も無くその雄姿を現していたがよく見ると艦橋の一部が破壊されてている。他は変わり無くさすが帝国海軍の旗艦と胸が高鳴った。

少し離れた工廠では、擬装中の駆逐艦十数ハイが真二つになり沈没。ドックやクレ-ン等の施設の多くが被弾し、弾薬庫も直撃を受けたらしく朦々と煙が上がり時々大きな破裂音が聞こえ、三日間燃え続けていた。 攻撃目標は軍港と工廠だったようだが、丘を一つ隔てた所の陸続きにコンクリートで囲った戦艦三笠(日露戦争での日本海海戦で日本海軍の名声を世界に知らした)と太い鎖で繋留されていた戦艦春日も被弾し横になって沈んでいたのを見た。敵さんにも血迷った奴もがいるもんだなあと思った。

八月四日か五日にも艦載機の空襲がありこの時同期の者が一名機銃掃射を受けて戦死した。誠に悲しいことであった。 こんな事があったせいか、その夜身の回りの物を整理し、お金も大分溜まっていたので母宛てに当時の金で三千円程送金した。 復員してから初めて知ったのだが、八月八日正午横須賀から出撃した後ちに、返信が横須賀に本人不在につきと返送された手紙を数日後に受取った二・三日後に終戦を迎えた。

出撃前にはお別れの休暇を貰えると聞いていたのに、最後の顔ををお見ずにとうとう逝ってしまったと一層悲しみを深め、毎日仏壇に手を合わせていたと言う。

出撃

八月八日一○○○前に下で艇長の呼ふ声がしたが、前日搭乗した際に「意見が合わず」くしゃくしゃしていたので、返事をせずに上で潜んでいたら帰って行ったので、また来ても「居ない」と言うように頼むと、友が「艇長が先程がら緊張した顔で何回か来ています。」と言った。

普段はこんなことは無いので何か変わったことがあったのではと思い士官宿舎に行こうかと迷っていた。暫くすると「伊原兵曹は居ないか」と艇長の声がしたので下に下りると『おういたか、出撃命令が出たのだ。身の回りを整理し、衣類日用品等をまとめ一二○○時本部前に集合せよ』と言って出て行った。

少々「たるみ」の生活をしていた時だったが、此の一言で身も心も引き締まる。 『長かった。待ちに待った時がやっと来た。これで逝けるぞ』

『先に逝った先輩に続ける。艇長と二人で小さいけど数万円の艇で、何百人・何干人敵兵と何十万・何百万円・何干万円もの大きな敵艦と引換で逝けるなら何も言うことはなし、必ず後に続いてくれるだうう』と思うと何もかも吹き飛んでさっぱりした。 急いで私物をを整理し後のことを申し継ぐ。特に用意してくれた横須賀最後の昼食をとり、二十分前に本部に行き艇長を侍つ。

そこで他の搭乗員九名と顔を会わし初めて同行者を知った。五分前に整備兵二十数名と共に整列すると隊長が出てこられた。

『海軍小尉崎浜秀男他九名は軍令により出撃を命ず』

『海軍少尉崎浜秀男他九名は命を受け只今より出撃します』と最後の敬礼をす。 本部前の道の両側に嵐部隊の下士官・十三期生・十四期生に続き、通信学校の全員が並び無言で帽を振り見送る中、一人々々の目を見ながら答礼をしつつやっとたた衛門まで来た。この間の長かったこと、普通に歩けば数分のところをその何倍もかかったように思えた。横須賀駅に着き荷物を受け取り、東海道線に乗車するも満員だった。

何処え行くのか目的地は知らされていない、暫く行くと汽車は止まったきり動かない、そのうちに「空襲警報発令」下車して近くの木陰に退避する。そこは大船駅だった。被害も無く一時間程して発車す。

一夜明したその夜遅く大阪駅に着くも汽車はない。貨物列車ならあると言うので無蓋車に乗り煤煙に悩まされながら昼頃やっと客車に乗換ることが出来た。

十日タ刻焼げ野原に停車、異様な臭い鼻をつく。焼け折れた電柱が目に入る。窓から顔を出して駅であることが分かった。すぐに動きそうもないので降りると一面焼け野原。所々に何かを積み重ねた四・五米の山が赤くくすぶっていてそれが臭っていたのだ。(これは空襲による死者を燃やしていたのだと後になって知った。)誰かがここは「広島」だと言った。その時初めて空襲の無残さを知り、早く基地に着き一日も早く出撃せねばならない、早く動いてくれと願っていたが一時間ぐらいでやっと発車してくれた。(空襲の後初めて通った列車だと言うことだった。またこの時は原子爆弾によるものとは知らなかった)

夜だったので分からなかったが、「大竹」を通過した。大竹潜水学校は奈良空から「0兵器要員」として着任し、蛟龍搭乗員としての訓練を受けたわずかニケ月だったが海軍々人らしい生活した思い出の地だった。

十一日昼近く徳山駅にて下車任地は近いと言うが、小さな魚舟で大島に渡り山上の林の中に新築された十棟程のばらっくの建物があった。中央が上間?その両側に二段になった畳敷の居住区でそれは粗末なものだったたが搭乗員には、ゆったりした風通しのよい所があてがわれ三日振りに落ち着くことが出来た。

翌朝艇長に連れられ山を下りる、途中入江が見えそこには見馴れた海竜艇が三艇係留されており整備兵が十名余り忙しそうに働いていた。早足で桟橋に行き座席に着き操縦桿を動かしたり、計器等を見るとやはり心がはやる。

外に出て何時から搭乗出来るかを聞く「一艇は明日の午後。他は二・三日かかります」と言っていたので明日の搭乗を告げ宿舎に帰る。 久振りの搭乗を思うと胸が高鳴り、浮き々々していたが、その夜は早目に床に就ぎ明日にそなえた。

朝起きてからなにか、落ち着きがなかったがハッチを閉め座席に付く「出港準備ヨーシ」と大声を出し操縦桿を握るとすっかり落ち着き、計器を見つめていた。潜航し暫く行くと「前方から大きな病院船が来る」と艇長の声がしたので「雷撃目標にしましょう」と言うと「「ヨーシ雷撃戦用意」と返事が返ってきた。

病院船には悪いと思ったが、敵艦に見立て操縦だけの「雷撃戦」を終了し斜め後方に浮上した。病院船の乗員がこれを知ったらさぞ驚いたことだろう。 二人すっかり気をよくし上機嫌で基地に帰る。

十四日のタ刻、横須賀を出てから車中で話すようになった整備の一等水兵が来て種々と雑談をしたがそのなかで整備の先任下士宮が「搭乗員は俺達に会っても、敬礼をしない」とボヤイテいたことを教えてくれた。 当時はそれぞれの役割等は未だ決まっていなかったが横須賀で「甲板下士官」であった立場上、その夜巡検前に「搭乗員整列」をかけ宿舎前に整列させる。

「先刻整備兵からこんなことを聞いた」

「整備の先任下士官が搭乗員は俺達に会っても敬礼をしないと、ボヤイテいましたと教えてくれた」

「大切な艇を身を粉にして整備してくれている整備員に失礼があってはならない、整備員あっての艇ではないか」と注意して二発づつ顎の制載を加えた。 これを整備室の誰かに見られたらしく、翌日には隊中に知れ渡り整備員と顔を合わせても昨日までとは様子が違い、笑顔で敬礼をする物や話かけてくる整備員が多くなり、わだかまりが無くなったように思えた。

昨日教えてくれた兵から、先任が「彼奴は小さいくせに、なかなかやるなあ」と言っていたことを知らされる。それ以後整備員の部屋に度々酒にも呼ばれるようになった、整備員との間は非常によくなり艇長からも、「よくやった」とお誉めを頂いた。教えてくれた整備兵は同県人でしかも隣町の出身であることが分かり、毎晩のように遊びに来るようになった。

終戦

十六日の夜も来て、おそるおそる小さな声で「実は変な噂を耳にしたのですが言うと怒られるから」としぶっているので「怒らないから言ってみろ」

「今日徳山え行った兵から聞きました」

「日本が負けました」「昨日米・英連合軍に降伏したとのことです」と言った。あまりにも突飛なこと言うので、我を忘れ、胸倉を取り「馬鹿野郎。二度と言うな」と一発喰らわしてしまつた。(悪いことをしてしまった)

床に入っても種々と思いが走り、なかなか眠れずうとうととしていた。

一夜過ごした十七日の朝食後『総員集合』が掛り、下の広場に行くと、司令が軍刀を吊して指揮台に立ったので、これは何かあったようだ、皆「シーン」として異常な雰囲気である。もしや昨夜のことがと思った。

「昨夜からよからぬ噂が立っているので、今からその真偽を確かめに司令部に行く、帰隊するまで宿舎にて待機せよ」

昼過ぎても何の指示の無く不安が高まり、夕刻やっと「総員集合」が掛かった。

『本朝より司令部にて、確認したところ、総司令部は八月十五日正午連合国軍に対しポツダム宣言を受諾する旨を伝えた』

『誠に残念なことではあるが、我々のやるのはこれからである。一層訓練に励むように』

全員私語もぜす只立っているだけ。

解散して宿舎に帰ったが信じられず、「やるしかない」のだとあちこちで何人か集まり深夜まで話合っていだが不安が高まっただけだった。

十八日昼「本朝より一切の訓練を中止せよ」との入電があったがこれを無視する。十九日午前艇長他三名にて下関海軍工廠え海龍を受取りに向かう。十九・二十日は工廠近くの小学校の作法室をお借りして宿泊する。この間はカンパンとコンビーフ・パインナップルと赤飯の缶詰だけの食事だった。

これを若い先生に見られたのでお礼の意をこめて缶詰を数個進呈する。

「毎食これでは可愛想」と言って次の朝、配給米が少しあったからと言って、ご飯をご馳走になった。

あとで知ったことだが、あんなに苦しい食糧難の時によくあれだけのことをして頂き唯々感謝々々。

二十一日今日は艇を受け取りの日なので早起して荷物を整理して、朝食後にご馳走になった後にに先主方にお礼を言って小学校を去る。 工廠え行き曳船の結索された艇の状況等を確認して出港した。

これが自分の艇かと思うと緊張もしたが、嬉しくてずっと艇の横に釘づけになっていた。幸いなことに海は静かだったが、両舷に艇を繋いでいるのでスピードが出ない二十二日の昼過ぎ無事に基地に着くことが出来た。

二十三日今日から新しい艇に搭乗乗出来るので朝から準備に追われ昼過ぎ桟橋に行くと、何時も忙しそうに働いている整備兵が少ない、当直士官の所え行くと「本日より搭乗訓練は中止」と聞き、もう爆発しそうになって宿舎に帰る。

何のために下関まで行き艇を受け取ってきたのかと思うとたまらない気持で一杯だ。もう二度と搭乗出来ないのでは、などと種々と思いを巡らせ宿舎に帰り当たりちらていた。

夕食後「倉庫にある酒等を配るから各分隊受け取りに行くように」との知らせせがあり搭乗員数名を倉庫に行かせる。

帰ってきたのを見るとなんと荷車に、洒・ビール・ウイスキー・缶詰等を山と積んで整備兵に曳かせてるではないか、総員がかりでそれを下ろし、それからが大変だった。

ビールにウイスヰーや酒と深夜まで酒盛が続いた。

気持がすさんでいたので大食器になみなみと注いだのを「がぶ飲み」どれだけ飲んだのか分からない、なにしろあんなに飲んだの六十三才の今日まで最高だった。

やがて潰れてしまい明け方になり、汚い話だがもどしてしまった。それがまた普通ではなかったホースの先から水を飛ばすように、口から二・三米も飛び腹から搾り出すようでそれがなかなか止まらない十数秒も噴ぎ続けたのには驚いた。

翌朝九時過ぎに目を覚ました時はもう頭は「ガンガン」食欲も無く、無理して少し食べると五分ぐらいすると便意をもよおし外の厠え走る。「下痢」だ宿舎に帰るとまたすぐに、もよおす。しまいには厠まで行きつかず草むらで、この繰返でなんとその日は二十数回も通い苦しむこととなった。

夕刻になり、下痢で苦しんでいることを聞いた整備の先任下士官が心配して見舞に来てくれて「ビール」を飲めばよくなると言うがなかなか信じられないでいると陸軍では馬がお腹を悪くすると、「ビール」を飲ますと聞いたから瞞されたと思って飲んでみろと言うので、コップに二杯飲んだ。

すると気のせいか少し落ち着いてたように思えた。

元気な奴等はその夜も酒盛をしていたがこちらはそれどころではない、気がつくと「ビール」がきいたのか厠え行く間隔も長くなり、その夜はやっと少し眠ることが出来た。

翌日も朝から「ビール」を少し飲むとその日は数回でみやっと人心地ついた。

毎夜のように欝憤を晴らすような酒盛が続き、なかには日本刀を振りかざして斬りかかって暴れる奴がいてなだめるのにに苦労した。なにしろ手あたり次第に林の木を斬り倒し、時々近くの者に斬りかかる。それを止めてくれと言うので前に立つと大声でわめきながら刀を振りかかって来る。まさか斬りはしないだろうと思うのだが、矢張り恐くて近寄れない、あまり刺激しないようにして遠まきにして疲れるのを待ってやっと落ち着かせた。

この時刀を振りかぶり、構えられるとどんなに恐いかを初めてしった。こんな話を聞いたことがある。戦場で銃を構えて迫って来た敵に、日本刀を上段に振りかぶって向かうと、恐怖のために引金を引けないと言うことだ。この時初めて本当にあった話だったんだと思う。

復員

その後数日のことは殆ど覚えていない。この間に家に帰る(復員)話が出たよう思う。 身の振り方を皆で話合ったが、帰るより仕方ないと言う者と、九州・・沖縄・東支那で海賊にでもなり米船を襲い少しでも仕返しをと言う二派に別れた。

六人兄弟の五番目だったが、逝くとしても兄弟の中でも、一番先に逝くと思っていて、もう死んでしまってていると思っていることだろうし、一人ぐらい帰らなくてもいいだろうし、今日まで死を共にと誓った艇長と行動を共ににするのだと心に秘す。

整備兵のなかには所帯持ちもいたので、自分達とは違って帰ってからの抱負等を話合うていた者もいた。どうしたらよいのかさっぱり分からず、海賊にと考えても何かひっかかるようなものがある。こんなことの繰り返しで日が過ぎた。

八月二十六・七日の両日で半分近くの者が復員して行った。

それまでに艇長から帰るように言われたが、聞きいれす下士官搭乗員の二人が残った。二十七日の夜も艇長に呼ばれ「明後日に最後の船が出る、それ以後は何時になるか分からないから帰れ」と涙を流して諭されて気持が少し傾いた首を縦に振らながったので怒って行ってしまった。

次の日同郷の整備兵が崎浜少尉に言われたからと言って、荷物をまとめに来たが返事もせずにいると、回りの物を嚢に詰めて「まだまだ入りますね」と言って出ていき米・砂糖・缶詰・菓子・煙草等を箱に入れ持って来て詰めながら、これもこれもと言って棚にあった一人用のピンクの蚊帳まで入れまた出て行き、「郷里には無いだろうから持てるだけ持って行って下さい」と言って、新しい毛布や米等を持って来た。入りきらないので大きな毛布の包みを作り、これは手に持って行って下さいと一升瓶の酒を横に置いた。

「おい、一人でそんなに持てないぞ」「自分も同行しますのでご心配無く」と笑って出て行った。

タ刻に主計科の下士官が「これをお着け下さいと」と海軍一等飛行兵曹の階級章をもってきた。(復員時に全員一階級進級す)

帰路

昭和二十年八月二十九日 この日は記念すべき日だった。未だ気持が決まらない。一○・○○最後の船が出る三十分前に、同郷の整備兵が来て荷物を運び出すとすぐに、艇長が来た。

「もういいから俺に付いてこい」と引きづるように手を取り桟橋まで連れてこられた「折角生き延びたのだから長生きするんだぞ」と背を押して船に乗せるとすぐに渡り板を外したとたんに船は動き始めた。

もう言葉も出ない、涙しながらただ黙って互いに見つめながら何時までも何時までも、小さくなるまで帽を振るだけの悲しい別れだった。

島はすぐに見えなくなり船は瀬戸内海を大阪をめざして進んでいる。

思えば艇長とはこの四月から嵐特別攻撃隊員として死を誓い心を一つにして、なにもかもれて、同じ目標二向かって身を挺した四ケ月たった。

十七才七ケ月で死を目前にしてそれが出来ず今別れ々々となってしまった。

この三倍ものお釣りの命をながらえた今考えても、あんなに充実し、幸せだった日々はなかった。自分の総てが一年八ケ月の海軍時代特にこの四ケ月で培われたように思われる。

深夜になり大きな鳥居が見えてすぐに闇夜の中の裸電球に寂しく朱塗りの回廊が海に浮かんでとても荘厳に見えた。「厳島神宮」だった。

上陸したが闇夜で何も見えず回廊を歩き廻っただけで船に戻った。

もう一夜船で明かし三十日の昼前瀬戸の大渦潮を見た。船の前方に三角波がたっているよに見えたが、近づくと大小幾つもの渦が前にたちはだかり吹い込まれそうで恐い、こんな小さな船で大丈夫かしらと、しがみつきながら、あっちの方が大きいぞと眺めていると船長もうまいもので渦の隙間々々を縫うようにして渡りきったので皆で顔を見合わせ「すごかったなあ」と言いながら、流れるように船の後になっていく渦潮を何時までも眺めていた。

午後大阪港に入港し駅までどうやって行ったのか覚えていない。駅に着いたのは夕刻前だったと思う、ホームえ出る階段の下で荷が重いので、下に下ろそうとした時一升瓶を置いたとたんに倒れて二ツに割れてしまった。多くの人が「もったいない、もったいない」と言い、なかにはかけらに残った酒を飲んだ人もいた。父えの「土産」にと思い下げて来たのだが残念だった。かけらを始末してホ-ムに出る。

駅では見なれない陸軍の兵が多く、俺のようなカーキ色の略装の上着に夏の飛行ズボンに飛行靴を履いた姿が珍しいのか、また水兵が付き添っていたので目立ったのか、多くの人に周りを取り囲まれ注目の的となった。

米原行きの下り列車が着いたので乗車したが席が無く立ちっぱなしで米原まで来て乗換えやっと座ることが出来た。

途中で夜が明けた、「変わりないだろうか」と両親のことが気になって来た。敦賀を過ぎて金沢・高岡とだんだんと近くなり、呉羽山のトンネルを出るとすぐ富山駅に着いた。富山からは二・三十分で着くと思うと「そわそわ」して気が落ち着かない。

やがて母校のグラウンドのポプラ並木が目に入って来た、「おうう、やっと着くか」と降りる用意をしてデッキに立つ、汽車は速度を落とし駅に止まる。

整備兵が荷物を持って先に降りて「兵曹お元気で。またお合いいたします」と乗車しあわただしい別れだった。

帰宅

昨年夏の賜暇以来一年振りに、二度と踏むことが出来ないと思っていたホームに立つことが出来た。もう二度と会えないと思っでいた親・兄弟にもすぐに会えるのだと思うと、胸が一杯になって暫く呆然とつっ立っていた。

駅舎に入り、駅長に「常盤町の伊原ですが電話をお借り出来ませんか」

「ご苦労様でした、どうぞお使い下さい」

受話器に手をおきベルを鳴らす。

「何番てすか」

「一五七番をお願いします」

「はい、お話し下さい」

「もしもし」と母が出た・

「公男です、お母様ですか」

「ええッ、公男。何処、何処に居るの、今何処に居るがけ」

「今、駅から掛けておりますが、荷物がありますのでお願い致します。」

「すぐに行くから待っておられや」と電話が切れた。

駅長にお札を言って外に出て、駅前から変わらぬ町並を眺めながら待つ。

一昨年の十二月多くの人々に万歳々々の声に送られ時のことや、昨年夏にもう二度と会えないのかとか一人利涙を流した時のことなどが次々と浮かんで来た。

暫くすると通の向こうから、アッパッパを着て小走りで来る母の姿が見え、その後から弟が乳母車を押しながら走ってきて前に立つ。

「おうう、よかった。本当に公男だね、公男だね」と涙を流しながら顔をくしゃくしゃにしながら近寄って来る。

熱くなった胸をドキドキさせながら、精一杯の敬礼をする。

「只今帰りました。ご心配をお掛けしました」

「お変わり有りませんか、お父さんは」

「とうさんは家で待っておられるから早く元気な顔を見せて上げて」

三人で駅を後にする。祖母が息を切らしながら来た。

「お婆さん、只今帰りました」

「おう、あんた、足があるね。公男だね、よく生きていたね」

言ったきり手拭で顔を覆っていたあと、母と手を取り会っていた。

家に着くまで何人もの人が家から飛び出して来て、「おかあさん、よかったね、よかったね」と言ってくれたので、丁寧に敬札をし、お礼を言いながら、母の歩調にあわせ家えと急ぐ。母が先に入り父に知らせたので、玄関まで出て来た父の顔を見て泣きそうになった。「只今帰りました。ご心配をお掛けしました」と敬礼する。

「さあ、上がれ、上がれ」と先にたち囲炉裏の部屋に行く。

両親と祖母の前に正座する。

「只今帰りました。申し訳ありません」と手をついて頭を下げる。

父も「もう駄目かと思っていたのに、よかった、さあ仏壇え」と言われお参りして父の前に座ると「ゆっくり休めよ」と言ってくれた。

母「本当によかったねえ、送金受取りの手紙がお盆に、本人不在につきと、返送されて来てすぐに終戦。特攻で行く前には面会させてもらえると聞いていたのに、それもで来ずに、間際になってとうとう逝ってしまったと、もう諦めていたんだよ。でも元気でこんなに立派になって帰って来てくれて本当によかった」と泣きながら言う。

「六人兄弟の五人まで軍隊に入りなかでも、一番早く逝くと覚悟していたのが一番先に帰って来てこんなに嬉しいことは無い」と言われ心配を掛けていたことを知った。

父が草煙を吸いだしたので、御賜の煙草の「ほまれ」や缶詰・ウイスキー等を出しで渡し、奈良を出てからのことなどを話す。

タ方に行水をと言われ大きなたらいに入っていると母が来て背中を洗ってくれたが恥すかしいやら、嬉しいいやらで、テレテいた。

タ方になり四男が陸軍一等兵で帰って来たのでまたまた両親を喜ばぜ一年振りに賑やかなおいしいタ食を食べることが出来た。

食後浜辺に行き一年前と変わらぬ美しい夕日の沈むのを眺め、別れた艇長のことなどを考え暗くなるまで海を見つめていた。

その夜は遅くまで話がはずみ、我家の有り難さを知る。やはり我家は一番だった。

その夜はふんわりとした布団でぐっすちと寝ることが出来た。

家に居ても負けて帰ったこと、また先に逝った先輩や友のことが頭から離れず、只続けて逝けず「すまぬ」と言う気持が強く、友人を訪ねることも出来ずに家に篭りっきりで、タ方浜辺に出てタ日を眺めるだけの日が何日も続いた。

数日後父に呼ばれ「帰ってから今日まで何処にも行かないが、どうしたのか、負けて帰ったのはお前一人ではない、精一杯やって来たのだから気にすることはない。胸を張って町を歩いてみろ」と言われたが、その日は出来ず次の日にやっと友人を訪ねることが出来るようになった。

自分にとって、この一年九ケ月の予科練・嵐特別攻撃隊は何だったのだろうか、親の承も得ず受験し、そして入隊・厳しくて苦しくて辛く筆では書きつくせない訓練は現代の若者にはとうてい理解出来ないことだろう。

夜寝ている時以外は絞りに絞られた、まる一年たらず。そして特別攻撃隊の一員として、ただ死を目指し厳しい訓練に励んだ七ケ月。そして、あとわずかでの死を目の前にして、不運にも敗戦となり帰らざるを得なかったことを考えると。

先に逝った友と靖国神社での再開を約したのに、どうして死ねなかったのだろうかと只残念で残念でならない。そしてまた、すまぬと言う気持で一杯だった。

六十六オまで生き永えらえ思うに、海軍は自分にとっては、永い人生のほんの一頁でもあり、またその総てであったようにも思う。

教職の四十八年間非常に大きな役割を果たしてくれたことも事実であるし、生きることの指標に、またある時は励まし、力づけられたことも数えきれないくらいあったように思うし。海軍があったからこそ今の自分があるのだと思っている。

終わりにあたり、若くして逝った先輩・友のご冥福を「やすらかに」と祈る。

参考

特殊潜航艇海龍について

海龍の発案は1943年(昭18) 海軍機関学校出身の浅野卯一郎機関中佐(後大佐)の「水中の飛行機」との着想基本でその予備浮力をマイナスとして潜航に移る時間を短縮し、翼・フラップにてその潜航深度の変更を容易にし量産できる小型潜水艦との発想であった。 昭和18年 3月甲標的甲型(蛟龍)に翼を付け改造し実海域実験された小型潜水艦(S金物)は実験委員会では認められなかった。浅野大佐は屈せず「回天」とドイツのビ-バ-潜航艇を参考として世界で始めての超小型有翼潜航艇の開発に全力を傾倒し、主機械(いすずディ-ゼル)電動機及び電池(九二式魚雷用)操縦装置(飛行機銀河用)等すぐに入手可能のもを選び、その大半を大佐自身で集め19年 5月「横須賀鎮守府指令長官は海軍工作学校長をして「SS金物」一基建造せしむべし。横須賀海軍工厰長、海軍航空技術厰長をしてこれを援助せしむべし」との訓令により作業が進められ 6月27日艇が進水した。

  6月19日付で横厰長宛に「仮称SS金物実験の件の通帳」が出され、 6月28日官房艦機密第四〇七五号で横須賀鎮守府指令長官、呉鎮守府長官、六F長官宛の「仮称SS金物の実験訓令」で呉鎮長官は潜校、第一特別基地及び呉厰に施工させ、横鎮は水雷校と協力することとなり大浦の甲標的部隊(一特基)から前田冬樹大尉が横須賀に派遣された。

大尉は同部隊から同期(71期) の久良知滋大尉を伴い共に各種の実験並びに補修に心血を注ぎ、「SS金物の戦略.戦術的用途について」との書を連名で軍令部.軍務部.艦本のほか広範囲に送り、訓練教育要員の育成、基地の展開等について説き回り 8月12日第2及び第3号艇製造の通諜が横厰長宛に出され、12月 3日付訓令では12月 3隻、1.2.3 月各 5隻計18隻の製造が認められた。

 昭和20年 4月 1日量産について海軍大臣訓令が発せられ 5月 4日「SS金物」を「海龍」と命名、兵器として採用 9月迄に当初の 3艇を合わせて 357隻の量産が認められたが終戦時迄に 224隻が完成 200隻が未完成だった。 6月以降21隊(1隊12隻) の突撃隊編入と展開が発令され別に 8月15日以降編成予定が 2隊あったが海龍は実戦には参加しなかった。

海龍の主要目
乗員 2名
全長 17.2m
全幅 3.45m
排水量 水上 19.283t 水中 19.500t
速力 水上 7.5ノット 水中 10ノット
馬力 内火 100   電動機 100 ×2
安全潜航深度 魚雷あり 100m魚雷なし200m
航続力 水上 5ノット 450カイリ
水中 3ノット 35カイリ
炸薬装填時 120カイリ
潜航 秒時 8秒 数十秒で深度約100m
魚雷 九二式 45センチ 2本

展示されている羅針儀は艇外の筒10に収められプリズムにより4の艇付席前の計器盤に映し出される(赤印)

 魚雷は艇外下左右に 2本専用射出筒に入れ浮力零としてレ-ルにて装着して航行し噴射薬にて発射その反動で筒を後方に落とし、発射後体当たりする構造(頭部に 620キロの炸薬を装填)になっていた。『深々度試験潜航時 1艇、油壺回航時 1艇、他に 1艇 6名の犠牲者が出た』 昭和20年 5月29日付「水上水中特攻作戦指導要領腹案」の第二作戦要領の中で攻撃目標選定標準を次のように定めていた。

 「蛟龍」 1 空母、輸送船 2 巡洋艦、駆逐艦 3 戦艦
 「海龍」 1 輸送船  2 空母、巡洋艦、駆逐艦 3 戦艦
 「回天」 1 空母、戦艦、輸送船  2 巡洋艦 3 其の他
 「震洋」 1 輸送船、大型上陸用舟艇  2 駆逐艦  3 其の他

 久良知、前田両大尉は昭和19年11月から「海龍」建造を見守りながら、嵐部隊(横須賀特攻部隊の総称)13期甲飛出身の搭乗員分隊(特攻要員)の分隊長として教育訓練をも担当しその養成に尽力され、隊員達からは「海龍艇」生みの親、兄と慕われていた。